読みました
近衛前久さんのことを書いた本を。物語では無いので、読むのに時間がかかりました。面白かったですね。公家でありながら、武家に憧れ、武家にくっついてアチコチ回って、息子も連れて歩いたわけで、この事が後々困ったことになるのは、気づいていなかったことになるわけで…この写真の場面は、京都を追われ、幼い息子を連れていた時で、足利義昭さんとうまくいかなかった頃で、命狙われてていた時で、前久としては苦しい時期な訳で、それでも信長に希望を託していた。足利義昭が京都から追われた時に、ようやく京都に戻り、信長と会い積極的に信長に協力し、再び朝廷で政治を行うことを望んでいた。戦にも参陣していた。形ばかりのものだけど。武家とは積極的に交流していた。前久は朝廷に返り咲き太政大臣になった。信長の思惑もあり、持ちつ持たれつだった。で本能寺の変で信長が命を落としたことで、前久の計画は瓦解し、ショックで直ぐに出家してしまった。明智光秀に加勢をしたのではないかと疑われ、また京都を追われ、次の実力者であろう家康のもとにしばらく滞在し、家康の取りなしで、京都に戻った。秀吉は前久を利用した。何故秀吉が関白になれたのかが不思議だった。秀吉は厚かましくも強引に、朝廷の官位体制をめちゃくちゃにした。秀吉は出自にコンプレスがあり、官位を望んだ。関白職は藤原家の筋で、五摂家の近衛家と二条家が受け継ぐ事になっていた。何故秀吉が関白になれたのかが不思議だった。秀吉は強引に前久の猶子となり、前久の息子と義兄弟になり、近衛家の一員となり関白になり、前久の娘を養女に貰い、後陽成天皇に女御として入内させ、天皇の外戚になった。前久は関白職を乗っ取られ、娘まで取られてしまった。息子の信尹に関白職が戻される、思ったけど、秀次に関白職を譲り秀吉は太閤となった。なんと お人好しな前久だこと。前久の息子は朝廷で左大臣をすることになったけど、信尹は父前久から近衛家の役割や、朝廷での仕事の仕方についてしっかりと教えられていなかった。武家の付き合いだけで、公家の社会をあまり知らないで育ってしまった。なので朝廷でのお仕事が上手く出来ずに、心を病んでしまった。晩年前久自身も、もっと公家としての教養を深めるべきであった。と回顧していた。でも、晩年は、子供達、孫たちに囲まれて穏やかに過ごしたらしい。前久が亡くなり、その後すぐに信尹も亡くなり、信尹の代で公家としての近衛家が消滅した、ということらしい。武家になりたくて、武家と交わり、天下統一を望み続けた、波乱に富んだ生涯だったらしい。お育ちの良い公家のお坊っちゃん、だった様だ。実に面白い人だと感じた。近衛前久を知る事ができてよかった。本郷奏多さんが演じたので興味を持ったわけ。なんのこっちゃない。どんと晴れ。