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2008年02月19日
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カテゴリ:家の物語
  栗山町内の各所で、風格ある家屋に出会うことがある。かつて農場事務所を兼ねて立てられた家などのようだ。明治19年(1886)に「北海道土地払下規則」が施行されると、角田村は他にみられない大規模な地積の貸下げが行われ、地主による農場経営が集中した。その理由はやはり地味がよく、気候が温和なことや、交通の便に恵まれていたことであったが、こうして大農場を構えた農場主らは、伝統的な和風建築や洋風のモダンな家、さらに積雪寒冷地北海道の条件にも合う新しい様式など、それぞれの美意識や時代感覚によって大家屋を建てた。一方、努力して農地を広げていった開拓者たちが、出身地の慣習を持ち込むなどして自らの生き方を家に表わした。それらの家々には長いときが刻み込まれ、人々のさまざまな物語を伝えつづけている。

湯地定暁さんとその家族が住む家は、離れと呼んでいる建築部分が大正の初めに建てられ、母屋と呼ぶ部分が大正13年(1924)に建てられている。古くは明治24年(1891)、角田村に大農場を開いた湯地定基が農場事務所兼住宅を建てた場所であり、その建物が増・改築されつつ受け継がれてきたものだ。定基は鹿児島県の出身で、明治維新以前にアメリカのマサチューセッツ州立農科大学に留学しクラーク博士のもとで学んだ。それが縁となって帰国後北海道の開拓行政にかかわり、退官後角田村に農場を開いた。現在の湯地地区の名称は、この定基の業績に由来する。定暁さんは定基のひ孫にあたる。

家の外観は大正当時のモダンな洋風デザインが維持されている。長年を経た風合いは深い味わいを呈し、ことに、離れの部分は床面が中二階とも言える高さに設計された珍しい様式。見る人によっては「東京・赤坂の旧乃木邸に似ている」と感想をもつそうだ。旧乃木邸は日清・日露の両戦争で名をあげた陸軍大将乃木希典(まれすけ)のかつての住まいだが、大将夫人静子は定基の実妹。つまり湯地家と乃木家とは親戚関係であるから、住まいに何らかの関連があると推測することは不自然ではない。ただ、当時の事情に明るい人物はすでになく、くわしいことはわからない。今、この離れにすむ定暁さんは「古い家に住みつづけることは大変です。冬は寒いし、次々と修理も必要」と話す。しかし「維持していくつもりでいる」とのことだ。

母屋の方には定暁さんの両親の永池暁三さん・従子さんが住む。従子さんは定基の孫にあたる。この母屋が建てられたときは、前年に起きた関東大震災の教訓もと、とりわけ頑丈さに意が注がれ、農場の木を伐木して土台などにふんだんに用いられた。事務所は玄関からつづく土間形式で、中央に据えられたストーブを取り囲み人々が集まったそうだ。今は、太い柱や梁にその面影をのこし現代的に改装されている。奥座敷などは当時のままが維持され繊細な絵が施されたガラス障子や桟のないつり天井等々、隅々に美意識がいかされ、携わった人々の心意気や住んだ人の夢などが想われる。

従子さんによると、昭和の初めころの湯地一家は通常は東京に住み、夏の間をこの家で過ごすのが通例だった。ハイカラな洋服をまとった東京娘の従子さんが村に姿をあらわすと、子供たちは近寄ってめずらしそうに絹の靴下にふれたという。「何もはいていないように見えるのに、後に線があるから不思議だったのでしょう。何度か触られたことがありますよ」と、従子さんは今もおかしそうに話す。東京で暁三さんと結婚し、その後ここに移り住んだが、台所の水が汲み上げ方式でかなけが多く、漉して使用するなど不自由だったことがもっとも辛かった思い出という。テーブル、いす、調度品などは明治、大正時代からのものを今も大切に使っており、購入した日などの日付が従子さんの両親によって書き込まれたものが多い。従子さんもその習慣を真似、後に伝えていきたいと話す。

阿野呂地区の石田茂幸さんと家族が住む家は、明治38年(1905)に建てられている。同25年(1892)徳島県から入地した石田常三郎が建てたもので、四国にはいわば<建築道楽>の気風があり、常三郎は内地から6人もの宮大工を頼み6年がかりでこの家を完成させた。贅沢な材料と職人技が生かされた宮造りは芸術そのもの。内部は改装した部分も多いが、帳場、仏間、奥座敷がほぼ当時のまま残され、エンジュ、カツラ、_のあるタモ材などが惜しみなく使用され、重みある味わいを醸している。一部屋などは桂、天井板、かもい、なげし、障子、違い棚、何もかもオンコづくしという見事さ。いずれもわずかな隙間を生ずることもなく凛として現存し、先人の技に頭が下がるのである。

開拓者常三郎は、入地のとき大木のある場所を選んだということだ。たいていの人は開墾が難儀だからと嫌ったのだが、「大木のあるところは必ず土地が良い」との信念で、3人も4人もで抱えるほどの大木が生い茂っていたこの地に入った。そして10町歩を開墾し年に5町歩ずつ交互に豆類を耕作して、上げた収益で宮大工を雇い家の建築に投入したという。家のぐるりにオンコの種をまき、生垣が作られ、庭にはツツジ、モミジ、アカマツ等々数え切れない種類の木が植えられた。今、それらは100年を越えて生きつづけ、太くがっしりとした幹や張り出した根となって、なお力をみなぎらせている。茂幸さんの叔父で82歳になる石田嘉治さんは、こう言って懐かしむ。「常三郎じいさんは、僕らが尋常小学校の3年生にもなると学校から帰るのを待って、今日はこの木に登れ、その枝を切れと煙管片手に指図するんだ。遊びにも魚釣りにも行けなかったよ。だけど今になってじいさんの計画の偉大さに思い当たる。感謝してますよ、僕も盆栽がうまく作れるようになった」。常三郎は90代半ばまで蒔切りをしたほどの元気者であったという。

中に一つ、不可解な遺産がある。縦真っ二つに切られ、切り肌をつややかに光らせて立つ高さ10数メートルのオンコである。その比類ない哲学的な姿に感嘆のうめきを漏らさない人はいないだろう。常三郎と末の弟と二人がかりで、てっぺんから大鋸を引き下し何日もかけて二つに割ったものという。いったい、どういう意味をこめてその大それた行為は決行されたのか?そのワケを聞いた人はいない。片方は分家した弟の家の庭に植えられたが、環境に恵まれず弱ってしまったと伝えられ残念だ。この健康で哲学的なオンコは、その分も命を輝かせ常三郎の思いに応えようとしているのであろうか。

これらのすべてが今は茂幸さん夫婦に受け継がれ、大切に守られているが、茂幸さんは「いずれ我々も年をとる。家も庭も手におえなくなったら、美術館とか工房などの形で、地域の人たちに利用してもらえるような方法を考えていきたい」と構想を描いている。100年を超えた貴重な先人の遺産を、どう受け継ぎ後世に伝えていくかは、地域全体で考えるべき課題の一つでもあろう。






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最終更新日  2008年02月20日 18時38分23秒


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