栗山町開拓記念館の片隅に
栗山町開拓記念館の一隅に、鉄地銀装の「アイヌ鍬形」のレプリカが展示されている。これはいったい何だろう?とだれもが思う不思議な展示品である。レプリカは平成13年に製作された新しいものだが、その原型は東京国立博物館に収蔵される「出土地:夕張郡角田村字桜山 大正6年10月4日尾田勝吉・泉麟太郎寄贈」という古いものだ。平成11年1月、同博物館にたまたま見学に立ち寄った一人の町民が見つけた。おどろいて、帰るとさっそく関係筋に質問したが、鍬形とは何なのか、なぜ桜山で出土し、どのように東京国立博物館に贈られたのか、知る人はいなかった。 そこで、当時町史編纂にたずさわっていた横田直成(よこたなおしげ)によって謎解きが開始された。まず手がかりは、当時の新聞である。道立図書館に通い新聞のマイクロフィルムを丹念に調べ、「鍬形の兜大小7個を掘出す」という小さな見出しを見つけた。大正5年(1916)5月13日の北海タイムス(現北海道新聞この記事を要約すると 「大正5年5月6日、角田山字桜山の畑地を尾田勝吉、山根丈平、代田八太郎の3人で開墾中、直径10cmくらいのイタヤの古根を掘り起こしたところ鍬形状のものが7個重なって発見された。台は鉄製で、銀の延金で装飾してある不思議なもので、毎日4,50人の見物客があり、尾田勝吉から村役場に届けられた」というものだ。角田村で発掘された7個の鍬形(1919年発行「北海道人類学会雑誌 第1号」から)また、当時の「考古学雑誌 8巻第2号」にも掲載されているのが見つかり、それによるとこの3人の発見者は当時の桜山第三組に住む人々で、鍬形を発見した場所は「やや傾 斜したところ、深さ5,6寸(18~19cm)の位置」と紹介されていた。尾田勝吉から届出を受けた角田村役場では、警察に届け出るとともに北海道庁に報告した。道庁から宮内庁に連絡され、宮内庁から帝室博物館へ納付するよう指示があった。村役場から7個すべてを送付したところ、翌年このうちの3個は返送され、あとの4個が「大正6年10月4日尾田勝吉・泉麟太郎寄贈」となって寄贈受理されたのであった。その後、この話題は次第に影をひそめ、長い歳月が流れるうちに忘れられていたのである。おりしもサイトで検索したら東京国立博物館で特集陳列で栗山町(当時:角田村)出土の鍬形を陳列していた。尾田勝吉・泉麟太郎寄贈とある以下、文献などによると、鍬形とは、むかしのアイヌの男性の最も重要な持ち物であった。「ぺラウシ・トミ・カモイ」といって霊験のあるものとしてうやまわれ、病人の枕元に置いて病魔を追い払うなど、祈祷具として用いられたという。そして、鍬形をいつまでも屋内に置くとたたりがあるとされ、深山の土の中や岩窟の中に安置・秘蔵し子孫にも告げなかった。そのため本人死後は所在不明となり、発見されるのは幾代か後のことと考えられる。 鍬形を所有する人は長として尊敬され、この鍬形がアイヌの人々の間で最も大切にされたのは1700~1800年代と思われる。 原型は平安、鎌倉時代の武将が兜につけた前立て物からきており、形を変え用途を変えて、交易品としてアイヌの人々の手にわたり、次第に祈祷具として高められたようだ。本州では、長野、三重の寺社など2ヶ所に平安期(800~1100年代)のものとして伝えられる鍬形があるほか、宮城県多賀城市の宮城県立歴史博物館には、明治26年(1893)6月9日に北海道美国村(現積丹町)字小泊観音寺境内から掘り出された2枚の鍬形が収蔵されている。栗山町以外の北海道内では、道南や札幌など9ヶ所から鍬形が掘り出された記録があるが、現在実在しているものは、わずかに小樽市博物館蔵の完形品1個、北海道大学農学部付属博物館に腐朽の進んだ鍬形1個と先端部のみのものとの2個、平取町二風谷歴史館蔵の鍬形先端部10cm1個のみ。また、函館市北方民族博物館には、発掘品ではないが道南の八雲町に住んでいたアイヌの長老「弁開凧次郎」が持っていた鍬形と、真鋳製の先端部のみのもの2個が寄贈収蔵されている。では、なぜ栗山町で7個もの鍬形がまとまって発見されたのか。むかしこの地域は「下ユウバリ場所」とよばれ、松浦武四郎は「近世蝦夷人物志」に「文化年間(1804~1818)以前の人口は492人のアイヌの人々が住んでいたがその後の和人の使役により49人にまで減少した・・・・」と書いている。7個の鍬形はそれらの中の何びとかの持ち物であったのか?いずれにしても大人格者がこの夕張川筋に住んだことがあるらしい---という推測は成り立つだろう。絵画資料の中にも、鍬形が描かれている。天明3年(1783)蠣崎波饗(かきざきはきょう)筆「東武」画像(東京国立博物館蔵)、寛政2年(1790)同「夷酋烈像・超殺麻(いしゅうれつぞう・ちょうさま)」像(現フランス・ブザンソン美術館蔵)、寛政11年(1799)秦_丸(はたあわきまろ)筆「蝦夷島奇観=鍬形の図」、それを模写したと思われる安政6年(1859)松浦武四郎筆「蝦夷漫画」(三重県三雲町・松浦武四郎記念館蔵)の4点だ。蠣崎波饗は江戸時代の松前藩家老で画家でもあった。「東武」画像の左下には「天明三年発卯六月應蝦夷紋別酋長東武之嘱__之」波饗と書かれ「1783に紋別の長東武の頼みに応じてこの絵を描いた」ことがわかる。しかしモンベツとはどこか。北海道内には市、町名のほか川、山の名に数多くのモンベツがあり、「東武」が氏名としても、どこの人かはわからない。疑問が浮かぶ絵である。「夷酋烈像」は寛政蝦夷の乱(1789クナシリ・メナシの乱)の後、波饗が主君の命により乱の終結に功績のあったアイヌの長12人を描き、幕府に奉呈したもの。「超殺麻」はその中の1点で、この絵の序文で藩主松前_長は「超殺麻は智恵者」とたたえている。12人はいずれもアイヌの人々の風俗を強調して描かれ、その一つとして鍬形を掲げる姿が用いられたのでもある。「蝦夷漫画」は幕末・維新期の北方探検家松浦武四郎が5回にわたって蝦夷島(北海道)の各地を調べ歩いた中から、アイヌの人々の生活、風習、文化、自然などを、独特の絵と簡潔な説明文でつづったものである。この中で鍬形は次のように説明されている。「ぺラウシトリカモイとは兜の鍬形のことである。この形のものを昔、兜につけたかどうかはしらないけれども、アイヌの人々の第一等の宝物として、ユウカラの曲中、造島神が天より降り給いしこと(神が降った)の中にその家にも伝えるとある。アイヌの人びとは深くこれを尊敬して、山林または幽谷に一軒のお堂を建てて安置し、神酒を醸した時は、必ずそれを捧げるのである」(東京国立博物館資料第二研究室長/佐々木利和氏訳)横田は送り返された3個の鍬形の行方を追って、栗山町在住の竹田スギオさん<明治41年(1908)生まれ>を訪ねた。竹田さんは7個の鍬形が出土した当時桜山小学校のそばに住んでいた。記憶をたどり「尾田勝吉という名前は、かすかに記憶がある。山根丈平は自分の家の向かいに住んでいた人。しかし後に引越し、その後のことは知らない。代田八太郎は記憶がない。鍬形が掘り出されたという話や、誰かが持っているという話も聞いたことがない」と語った。一度は東京へ送られ、この栗山に送り返された3個の鍬形のゆくえは---?現在も古い書物を調べたり、道内外所在品を訪ね歩くなどして調査がつづけられている。