水神宮が語る稲作の歴史
夕張川上流の川端ダム右岸、栗山幹線導水門の近くに小さな祠がある。この歴史をたどってみると、明治29年(1896)ころ、北海道初の水利組合の創設と工事の無事完了を記念し、またその後の角田村水田かんがい水の守り神として<ゆかりの地>南学田堤取水口に建立された。同32年(1899)第2期工事が始められてからは旧角田頭首工右岸に鎮座し、63年間にわたり「水神(すいじん)様」と呼ばれて大切にされてきた。現在地に移転されたのは昭和38年(1963)、夕張川総合開発事業により川端ダムが築造され完成した折である。この水神様の長い歴史からもわかるように、栗山町はいち早く米作りを手がけ、その後の北海道における米作工業に大きな影響を与えた。旧角田村の開拓がすすめられる中で、この地域は湿地が多く水害の頻度が高いことから、畑作よりも水に強い水稲耕作が着目されるようになり、真成社社員の一人高瀬和三郎と泉麟太郎が明治26年(1893)詩作を行った。高瀬が5町歩(4.96ヘクタール)、泉が3反歩(30アール)。阿野呂川に木枠をとりつけて引水し耕作がすすめられたが、果たしてその年、稲は丈長く育ち結実も多く、秋、その収穫量は10アール当たり高瀬5俵、泉7俵という予想外の好成績をおさめた。札幌以北では最初の試作であったためこの成果は注目を浴び、それまで尻込みしていた真成社関係者も積極的になった。同28年(1895)有志60名あたりによって水利組合を組織し道庁に工事費起債を申請。紆余曲折を経て30年(1897)阿野呂川から古川まで初の掘削工事が実施され、130町歩の水田かんがいが可能となった。これは北海道では最初の水利組合が、最初のかんがい事業を果たした記録である。造田熱はますます高まり、角田村100年の大計に立って水利事業を村営で行うことが決まる。明治31年(1898)公借事業(今の自治体起債)として夕張川からの引水事業が開始された。その年の秋、夕張川未曾有の大洪水に見舞われ、角田村でも82名の溺死者を出す惨事となる。事業は一時中止されたがその後再開され、技術員高橋俊英を常任水利工事技手として迎え、翌年着工の運びとなった。延々とつづく岩盤等、数々の難所・難事での工事を終え、33年(1900)6月、夕張川_堤、幹線用水路掘削延長8000メートル余が竣工し造田は460町歩へと飛躍した。これはその後の北海道開田の大きな指標となった。この間に次のエピソードが伝えられている。32年5月、高橋技術員は格好の取水口を求めて雪どけ水の濁流の川沿いを連日探索していた。その夜も落胆の中に露宿したところ夢枕に「神仙の翁」が現れ、夕張川の上流をさして、岩盤がくっきり断ち切られている場所があると、ありありと教えてくれた。翌朝早く夢にしたがってすすんだところ、まるで天然の取水口が形づくられているような場所があった。高橋技術員は思わず手を合わせて神に感謝したという。ここが旧角田頭首工にあたる。「水神さま」が昭和38年(1963)まで鎮座していた場所である。泉麟太郎はこの報告を聞いて感銘し、次の詩を詠んだ。 日夜苦心河口工 神仙翁指示夢魂中 丹誠知是鬼神動 良線認来岩門東 日夜苦心する河口の工神仙翁指す夢の中いいここに知る鬼神の動くを良線をみとめ来る岩門の東に角田村の先駆的な業績がきっかけとなって、明治35年(1902)3月北海道土功組合法が制定された。その第1号として同年12月「角田村土功組合」が設立認可され、順次各方面への支線水路等開削がすすむ。大正13年(1924)に北大演習農場(現在の南学田)に設置された初の機械揚水機場は今もそのまま姿を残し、当時力づよくすすめられた造田、米作りの様子を伝えている。組合はその後昭和26年(1951)に組織変更され、同34年(1959)より「栗山土地改良区」となる。国営大夕張地区総合かんがい排水事業等が大規模にすすめられ、水源を大夕張ダム、清水沢ダム、川端ダムと拡大された。戦後の食糧危機を経て畑の水田化が推進され、食料管理制度により、保証米価となったことなどで、栗山町では水田耕作が増大し、昭和40年(1965)には水田面積が畑作面積を上回った。全道的に土地改良、耕種栽培技術の機械化と施肥の合理化、品種改良がすすみ多収良質米が実現するとともに、除機、コンバイン等の機械化により能率と小力化がいちじるしく高められた。栗山町は名実ともに南空知の米どころとなったが、食生活の多様化などにより、全国的に余剰米がふえ始め、45年(1970)米の生産調整が始まり、転作・休耕の必要が生じた。しかしその後も米が栗山町農業の最たる基幹作目であることに変わりはなく、今日町内の水田作付け面積は2600ヘクタール、1万3200トン(平成12年度)が生産され、良質、良食味の米作りと豊かな水と土を未来に引き継ぐ努力がつづけられている。