604874 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

tartaros  ―タルタロス―

PR

全1597件 (1597件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 >

2010.04.19
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
生きてるよ!






Last updated  2010.04.19 16:17:26
コメント(3) | コメントを書く


2010.01.30
カテゴリ:読書
「東方儚月抄 Cage in Lunatic Runagate.」を読んだ。
 神主ことZUN氏本人が執筆した、公式外伝のさらに外伝的小説である。ちなみに、今回音楽CDは付属いたしません。

 一応、漫画作品である「儚月抄」本編の補完という位置づけなので、概要だけでも知っておいた方がよりお話を楽しめるのは間違いない。
 ストーリー自体は……何と言うか、そもそも紫の企図した第二次月面戦争自体が、かつて月に敗北した際の個人的意趣返しでしかないため、はっきり言ってしまえば派手さには欠ける。本作を評して「小説版と言うよりファンブック」というものがあったのも頷ける内容では、ある。しかしながら、いつものゲーム本編での派手な弾幕勝負そのものも、根っこの部分は「女子供の遊び」である。
 明確に儀礼化したホモ・ルーデンス的な決闘が前提になっている、どこかのほほんとした牧歌的な物語なので(原作者本人が執筆しているので当然と言えば当然だが)、東方の世界観に忠実に則っているとも言える。
 やはりラストでは宴会を開いて酒を飲みながらアレコレと総括しているので、やはり、これは幻想郷を織りなす幻想郷の一部なのだ。

 なお、「永夜抄」以降、音沙汰のまるで無かった慧音と妹紅のエピソードが収録されているのもまた良し。後者は仇敵たる輝夜に対して良い具合にツンデレしている。


 また所々で神主の思想的なものも窺い知れるという気もする。
 公式設定に拠れば、蓬莱山輝夜が地上に追放されたのは、蓬莱の薬を飲んで不老不死となった=魂が穢れたためだとされている。
 本作で語られるところによると、月の住人達は長い生存が限りなく確実に保障されているため、生存闘争そのものに興味を持っていない。日々適当に働いて、暇なときは碁でも打っているのが理想的な生活なのだそうだ。
 しかしながら、『彼ら』の言う穢れとは、すなわち彼らの本来において持ち得ない観念――つまり、生への執着であるという事が推測される。
 月人の価値観に拠れば、生とは他者を蹴落とす競争である。
 その結果として現れる敗者の死を糧にして生は継続されるのであるが、死の誕生によって、また穢れも生まれるのである。つまり、生を永続させることの可能な月人にとって、短命ゆえに他者の死を喰わねば生きられない生物の支配する地球は、生存そのものが死と穢れを産み出す土地なのである。
 月人たちが地上を穢土と呼ぶのはそれに由来するという。

 が、輝夜は永遠の命を保証する蓬莱の薬を口にした。
 本来、生への欲求は地上の生物しか持ち得ない観念だ。であるにもかかわらず、輝夜は生命の永続を促すものをその身に取り込んだ。すなわち、生への執着と見なされ魂は穢れた。結果的に、輝夜は地上に住まう幻想郷の一員たる道を選ぶ訳だが、おそらく『欠乏』を克服したのであろう月人の中にあっては、動機はどうあれ飢渇に基づく行動を起こした蓬莱山輝夜は確実な“異形”であったことは想像に難くない。

 輝夜が月での生活に退屈を覚えて追放さるべく罪を犯したように、著者の語るロマンとは、等しく欠乏の救済という面があるのではないだろうか?
 あとがきによれば、現実の人間が幻想郷にロマンを感じているように、幻想郷の住人は、外界の科学技術に基づいた文化に対してロマンを感じているという。「神隠し」という現象は大正時代あたりまでは東京でも当たり前に事実として受け止められ、高度経済成長を境に狐に化かされたという怪異譚は消滅していったともいわれる。幻想であれ科学であれ、ロマンの追求とは、内なる精神に根差した未だ見ぬ世界への欠乏を、好奇の手が満たす行為であるとも考えられる。
 であるならば、幻想郷内部の常識に依拠した形で、神の力を借りてロケットを飛ばし、月の住人と一悶着を起こして来る霊夢たちは、やはりロマンではなく現状で知り得る最先端の力の行使を為したに過ぎない。

 かつて科学技術は不可能を可能にする手段であり、薔薇色の未来を約束する夢のようなものだと思われてきた時代があった。
 しかし、実際は兵器の発達によって戦争の悲惨さが増し、公害や環境汚染で地球そのものの命脈も危ういと言われるようになっている。神秘を捨てた結果として選びとった、科学という新たに欠乏を回避するための手段は、決して万能ではないという事実が露呈してしまったのである。

 近代以前に放棄してきた幻想という可能性を現代人が夢見るように、幻想郷の住人たちもまた、別世界の観念たる科学を夢見ている。そのどちらも欠乏を好奇心で満たすための手段であるのなら、幻想郷という架空の世界と現実の世界とは、ロマンという点で意外と似通っている部分があるのかもしれない。






Last updated  2010.01.30 22:38:56
コメント(2) | コメントを書く
2010.01.25
カテゴリ:日常の出来事
 諸事情により東京に行ってきました。一泊二日。


 一日目、やるべき用事を全て終えて秋葉原へ。
 この時点で6時を回っていたのであるが、せっかく来たので色々と見て回る。
 しかしやはり東京は豪壮だ。仙台は東北一の都会のはずだが、それでさえ見劣りするほどにきらびやかである。ビルにアニメの巨大ポスター貼ってるなんてそうそう無いだろう。たまに地方でも見るけど。
 トップにリンクを貼っている、twitterのアカウントを覗いている好事家は、「アキバなう!」などと呟いていたのを見ていたに違いない。

 で、ソフマップでCDを漁ったり、とらのあなでエロ漫画を立ち読みしたりなどした後、ようやく、寝泊まりする場所を探すという暴挙。


 普通、こういうのは出発前にある程度の検討をつけるべきものなのだが、「まあ、ネカフェでも探せば良いか……」的な生来の無精が顔を出し、当日に捜索を開始。どう見ても馬鹿の所業である。でも結果的に何とかなったんだから問題は無いのだ。


 なお、この時点で実家から「東京はどうだい」的な電話がかかって来て、秋葉原に居る旨を伝えると、「ああ、あのオタクの街」と帰って来た。たぶん、家族が受話器の向こうで失笑していたに違いない。

 
 さて、どうにか中央通りから少し外れた所にあるネカフェ『R』の一室を確保する事ができた。ネカフェに泊まるのはおろか利用も初めてだったのだけれど……。

 ネットが軽い!
 フリードリンク飲み放題!
 映画・アニメ・ドラマが無料で観られる!


 などと、なかなかサービスが良いなあとは思った(とはいえ、最近はみんなそんな感じなのかしら)。
 とりあえず東京都内の路線図やら地理やらをある程度確認し、無料配信中だった「仮面ライダー剣」で剣崎がオンドゥルルラギられたり、ダディヤアァーナザアァーンのカダダガボドボドになったりする様子を鑑賞した後、寝に入る。
 ベッド代わりなのは、いわゆるリクライニングチェアーだ。
 半分寝転がった様な状態でラクにネットが楽しめるという代物……なのだが、

 寝れるか、こんなモン! 

 椅子としてはともかく、上手いこと身体が伸ばせないうえ、地味に硬いため、落ち着いて睡眠をとれないのである。しかし、まあ何とか寝つけはしたのがもっけの幸い。




 ナイトパック(12時間)で、出ていく予定が翌日の朝8時。

 悲しいことに、この時間帯には大抵の店はまだ閉まっている。
 ええ、歩き回りましたよ。ひたすらにアキバをぐるぐると……。腹ン中がパンパンだぜ(疲労で)。




 一日目はタワーレコードでひとまずスケルトンズのCD2枚を入手した後、神田は神保町へ。実は秋葉原よりもこっちの方が最大の目的だったりする。
 世界最大の古書店街であるこの場所は、まさに軒を連ねるという言葉はこのために存在しているのではないかと思うほどにたくさんの古書店が存在している。
 駅から下りて十分ほど歩けば、もう4~5件の古書店に出くわした。

 面白そうな本を買ったり買わなかったり、店先で冷やかしたり熱心に見入ったりしながら、某店でジョルジュ・バタイユの哲学書と小説を3冊ほど発見した。一冊1,000円ほどだったので希少価値は高くないと思われるが、何より欲しかったものがようやく見つかったのは嬉しいものである。もちろん購入。

 なお同じ店にはバタイユの「眼球譚」初訳本がガラスケースの中に大事そうに陳列されていた。ちなみに価格は25,000円……。

 
 さて、この辺りで俺はそろそろ切り上げて帰り支度を始めてしまう。
 新幹線の時間までには若干の余裕があり、実のところはもっと遊びたかったのだけれど、荷物が多くなって身動きが取りにくいのと、何より疲労が俺の体力的キャパシティを遥かに凌駕し始めていたため、やむなく諦めたのであった。




 そういう訳でどうにか東京から生還した次第。

 ところで、俺が今回の東京行きで最もキュンってなったのは、神保町で五十代後半くらいの婦人が、古書店の店員にバタイユの訳書に関して熱心に質問していた光景だった。言葉の端々からお得意様らしいところが垣間見られたのだが、彼女があと数十年も若ければ、俺は恋をしていたに違いない。 






Last updated  2010.01.25 22:48:57
コメント(2) | コメントを書く
2010.01.21
カテゴリ:カテゴリ未分類
 ある大会に出場するべく、明日は新幹線で東京に遠征してくる。
 一泊して土曜の夕方に仙台へと帰還する予定。
 よって、現在ipodを充電しつつキーボードを打っているというわけ。

 その大会そのものは半日もかからずに終わるので日帰りも可能なんですが、何で一泊するかって言うと、むろん遊んでくるために決まってる。まず秋葉原に行きたい。あと神保町で古書を漁ってみたいなど。区で言えばどちらも千代田区? だっけ? 迷わないと良いねえ。
 
 もっとも、あちらの鉄道は東北とは「比較にならぬほど乗り換えが複雑」だと聞き及んでいるので、どうなるのかは実際に行ってみなければよく解らない。
 そういえば、どこに宿泊するかが未だに決まってないんだけど……。

 俺の中では、ネカフェに泊まり、難民が発生する現代日本の病理を疑似体験するというコースが有力なんですけれども。


 ああ、もう。とりあえず、純粋な旅行なり遊びなりで行く訳でないのが惜しいわ。
 東京って、暑そうね。






Last updated  2010.01.21 22:10:23
コメント(0) | コメントを書く
2010.01.13
カテゴリ:読書
 小松和彦「神隠しと日本人」(角川ソフィア文庫)を読了。 
 

 昨年末、ちょっと松島まで電車に乗って行ってきた。
 休憩をしようと思って駅の椅子に座ったのだが、俺の居た場所の真正面には掲示板が設置してあり、今後に催される予定の行事や指名手配犯の情報などがいくつか貼り付けられていた。
 その中の一つに、「小学二年生の女の子が行方不明になっている」というものがあった。
 今となっては細かい部分は失念してしまったけれど、どうやらキャンプの最中に忽然と姿を消し、未だに見つかってはいないそうだ。

 本書「神隠しと日本人」によれば、日本国内での行方不明事件の発生件数は、警察が認知しているだけでも万単位に上るのだという。我々が日々平穏に、極めて呑気に、あるいはあくせくと生きているうちに、“ここではない、どこか”に消えてしまった人々は、想像以上に多いのだろう。けれども“ここではない、どこか”――すなわち広義の『異界』『他界』と呼ぶ事のできるいずこかの空間――に消えると言っても、『神隠し』という思考方法が未だ当たり前に信じられていた時代と、合理性の推進された現代社会とでは大きな隔たりが確かに存している。
 祖母は子供時分、
「遅くまで外で遊んでいると、人攫いにさらわれてサーカスに売られる」
 などと親に戒められたそうである。
 この戒告がまだ根強く残っていた時代は、すなわち定住せざる者は異界よりの使いであり、彼らの旅する先こそが異界であったのだろう。それは、あるいは畸形児を売り物にした見世物小屋の住人たちであり、固定されたはずの日常から剥離するささやかなりし恐怖を、どこか他人事として、娯楽という次元にまで落としこむことが可能な時代であったわけだ。
 そんな、アウトサイダーじみた排他的思考を持ち出すまでもなく、ある場所に固定化された日常から、突如として人間が消え去ってしまったことを、古人は確かに『神隠し』と称していた。
 神隠された“彼ら”は結局、帰ったり帰らなかったり、あるいは死体となって発見されたりしたようだが、共通しているのは、居なくなってしまった者に対しての『異界からの介在』という要素が混じり込んでいるという点ではないだろうか。天狗であり、山の神であり、山人であり、山姥であり……多様に言い伝えられてはいるけれど、それらの大概はただの人間には如何ともし難い超自然の産物であり、彼らに囚われるというのは、多く、彼らが本来の住居としている“ここではない、どこか”、すなわち異界を構成する住人の一人と見なされるのに他ならない。イザナギが、死したる妻のイザナミを取り戻すべく黄泉の国へと赴くも、既に妻の肉体は腐り果て、死の世界の住人と化していた。女神デメテルの娘・ペルセフォネは、冥界の支配者・ハデスによって死の世界に連れ去られ、そこでザクロを食べたために生者の世界に完全な復帰を果たす事ができなくなる。
 もっと判り易い例を挙げてみる。
 竜宮城より帰還した浦島太郎だったが、故郷から離れているうちに数百年が経過しており、親しかった人たちも、自分の元居た住居でさえも、何もかもが消滅していた。彼をとりまいてているのは、海底に存在する竜宮城なる異界の時間である。一時的にせよ、そこに存在した=神隠された浦島太郎は、既に異界の論理に囚われていたのである。
「神隠しにあうということは、失踪者が異界に去るということであった。そして、そこに留まるということは、失踪者が異界の住人になるということでもあった。失踪が長ければ長いほど、失踪者は異界の『モノ』の属性を帯びることになる。」(p33)のである。
 再び元の日常へと帰って来ることのできた者たちは良い。
 けれど、帰って来なかった者は、もう二度と共同体の人々が会うこと叶わない。
 すなわち、神隠されたまま帰還せぬ者たちは、そのまま異界の住人となったというように解釈され得るのであり、つまり、それは――ひとつの『死』を意味する事でさえ、ある。古い時代の葬送とは、死者のための儀礼であるというよりも、むしろ生者のための儀礼とも言うべき側面が存在している。日常に侵入した死なる不測の事態である非日常に区切りをつけ、また翌日から当たり前の生活を手にするために営まれるべき祭儀だったのである。かつて信じられていた神隠しという思考の方法は、いわば死者なき葬送であるのかもしれない。唐突に喪われてしまったであろう行方不明者の存在は、確かに共同体において発生した恐るべき非日常だ。現実的に考えれば、家出・事故・恋人との駆け落ち……など、いくらでも原因は考えられる。しかし、共同体に侵入した異界を振り払うためには、彼らの失踪や蒸発を超自然的現象の仕業と考えてしまった方が、遥かにやり易い。
 言うなれば『神隠し』という解釈は、共同体内部における行方不明者へと、緩やかな死を与えるための葬送だったのである。
「『神隠しにあったのだ』という言葉は、失踪事件を向う側の世界=異界へと放り捨てることである。それは、民族社会の人びとにとって、残された家人にとって、あるいは失踪者にとって幸せなことだったのだろうか、それとも不幸なことだったのだろうか。」(p115)。
 現代よりも村落共同体としての結びつきが顕著だった時代には、互いに顔見知りである村内からの逸脱は、きっと忌まれていたのではないだろうか。どこの誰が居なくなっても騒擾となる狭く閉じた世界だからこそ、神隠しというシステムは機能し得る。それは、まだ葬送が地域社会の営みだった時代の産物であるのに違いない。
「神隠し信仰は消え去ってしまった。このために、現代社会における失踪事件は、ほとんどすべて人間世界の内部に原因と結果が求められることになった。『神隠し』のヴェールを剥ぎ取った失踪事件は、むき出しの愛と欲に彩られた人間世界の出来事のクライマックスの一つとして描き出されるものといっていいだろう。」(p203)
 石と鉄で造られた大都市が誕生し、全国から地縁も血縁も無い人々が続々と集まって、モザイク的な様相を帯びた社会こそが、現代であろう。もはやその地においては、死の知らせを受け取るのは共同体よりも家族、社会よりも個人と考えた方がちょうどいいのではないだろうか。そして、『異界』もまた、我々人間が知り得る範囲でのみ存続している。
 今でも、人は居なくなる。
 何の前触れも無しに、ある日突然、「たしかに、失踪者は日常生活の“向こう側”に消えてしまったといっていいだろう。しかしながら、現代人にとっての“向う側”は、家族や知人にとっての向こう側、つまり彼らの知らない、見えない世界ではあっても、そこもやはり人間の世界の内部なのである。そこは神々の領域としての“向う側”ではないのだ。」(p204)。
 
 神隠しという見立てが未だ許されていた時代、それは社会的な死であり、緩やかな死であり、そして何より甘やかな死の形であった。見えぬが故に、異界での安息を祈る一抹の希望であった。
 異界が顕界と地続きになり明確に可視化されてしまった現代の方が、実は、行方不明者の悲劇を受け容れるうえでは、鵺の如き不可解な不気味さに覆われているのかもしれない。






Last updated  2010.01.13 23:24:00
コメント(0) | コメントを書く
2010.01.12
カテゴリ:日常の出来事
 お久しぶりです。
 死んでないです。

 
 更新のネタが無かった訳ではなく、単にキーボードを叩くだけの意志に乏しかっただけ。考えるという行為は、意外とエネルギーを喰いますよね(はぁと)。
 最近は、かの東方創想話様に投稿したりしてました。たぶん、俺のHNで検索すれば引っ掛かります。未だ二作しか投稿してないですけど。

 それ以外だと、「道徳の系譜」を読んで、ここ数年、他人との関係において感じていた靄めいた不快の正体が知れたり、未だに就職先が見つかって無かったりです。
 

 ひとつ、気が付いたことを上げるとするならば、思考とは、より憂愁・憂鬱に近い感情を抱くほど(少なくとも俺の場合は)より明敏になるという事実。
 それは恐らく、自身に到来している不快や不幸の原因が自分自身にあるのをよく理解していながらも、他者にその責任を転嫁しようとする子供じみた欲求に起因している。つまるところ、俺は言い訳の醸成と他者の粗探しの時にこそ最も精神の活発さが発揮されるという事なのです。故に、憂鬱な時こそ思考は暗い意志と転化し得る。
 反対に、陽気という感情は、理性から解き放たれた祝祭的・忘我的・恍惚的なものであり、そうした状態に陥った思考とは、最良の意味で冷静さを欠いたものである。何かを成功させるには、この状態が最も望ましい。

 とはいえ、初詣で引いたおみくじは「吉」でした。どうやら今年もそこそこの年になりそうでは、ある。
 






Last updated  2010.01.12 22:27:40
コメント(3) | コメントを書く
2009.12.18
カテゴリ:カテゴリ未分類
 最近の近況。

 テーブルマナー講座なる行事にて、仙台市内の某ホテルでフランス料理のフルコースをいただいた。

 あくまで眼目は「テーブルマナーの講習会」なので、食事開始前にホテル職員による説明が行われたが、あとは普通の昼食会だった。
 俺は一般庶民出身の一般庶民なので、こうした「格式ばった」というか、「ちゃんとした」マナーを気にするべき所で食事を取るのはたぶん初めてなのだが、案の定、生来の不器用さをいかんなく発揮する羽目に。
 
 ……端的に言えばね、こぼしたのよ。

 誤解の無い様に言っておくと、汁を少し。
 具をまるごと盛大に落としたりはしなかった……と思いたい。

 
 料理自体は美味しかったと思う。
 ああいった「量より質」の料理は、空腹の補完よりも舌を楽しませることが主目的だと思っていたのだけれど、フルコースで食べると結構、腹は膨れるものですな。
 もっとも、俺の今後の生涯においてフランス料理を食べることなど天地がひっくり返って太陽が西から上っても有り得ないことだと思われるので、今回の体験は割と良い思い出にはなったと思う。マナーを活かす機会があるかどうかはわからんし。


 それにしても、米ってうめえwwwwwwww






Last updated  2009.12.18 22:47:02
コメント(0) | コメントを書く
2009.12.14
カテゴリ:読書
新井円侍「シュガーダーク 埋められた闇と少女」(角川スニーカー文庫)を読んだ。


「涼宮ハルヒの憂鬱」以来、6年ぶりの大賞受賞作ということで読んでみたが、なるほど面白いと思った。話の舞台がごく狭い領域に限定されている割には、上手い事まとまっている。
 ただ、各所で評されているように、流行の潮流を左右する程の魅力があるかと訊かれれば「?」だなあ……と。
 
 たとえば「ブギーポップは笑わない」がヒットしてからというもの、それまで異世界ファンタジーが主流だったラノベに現代劇という一ジャンルが誕生したと言われるが、あるいはそのように斬新な基軸と言うものは、本作には無いと言わざるを得ない。


 強いて他と違う点を探してみるなら、主人公の職業を墓掘り人夫という地味なものに据えたところとか……? しかし、「シュガーダーク」にはラノベに多く特有の爽快感みたいなものは乏しく、むしろ暗い場所から明るい所へようやく這い出たかのような、湿り気を帯びたささやかな情動がある。こうした物語の傾向が、たくさんの読者の感情に(また感傷に)訴え得るものかどうかは知らないが、これだけをもってしてラノベ界のメインストリームに成り得るか否かは未知数だ。というか、ある意味で本作はその試金石か? 散々「ハルヒ以来の大賞受賞!」って宣伝されてますし。


 しかしながら、昨今、おそらく商業的な事情からやたらと萌え主体のラノベが氾濫している現状を鑑みると、こうした作品でもむしろ(個人的には)大きな充足みたいなものを感じるね、俺は。


 
 巻末の著者あとがきによれば、既に続刊の刊行が決定しているらしいのであるが、一巻の時点で十分にお話としては完結していると思うのだけどね。これ以上続けるのはヘタをすると蛇足に成りかねないとも考えてしまった。無理に続きを出すくらいであれば、一巻の密度をもっと高くすべきですらある。
 が、やはり回収し損ねた伏線が残っているのだし、色々な大人の事情も絡んでいるのであろうとも思う。世の中ってままならないわー。






Last updated  2009.12.14 22:41:30
コメント(0) | コメントを書く
2009.12.10
カテゴリ:日常の出来事
 バリバリ! やめて!


 12月16日に、テーブルマナー講習会とやらで、某ホテルでフランス料理を食べて来ます。要するに昼食会的な。
 当日はスーツらしく、夏に購入したまま使う機会の無かったネクタイ二号の出番になりそうだ。赤いの。
 たぶん俺の一生で、この先フランス料理を食べる経験など一度としてあるはずは無いので、然とカッ喰らってきます(←既に失格)。

 しかしながら、個人的な話をするなら、俺はどこかのレストランで作法だのマナーだのいちいち気にして食べるより、場末のラーメン屋で淀んだ空気を飲み込みながら、濃すぎるくらいのスープと伸びかけた面を無表情で啜っている方が性に合っていると思う。肩肘張った食事は苦手だ。
 そういうわけなので、当日はマナーの悪さを露呈し、世のブルジョワジー共を震え上がらせてやろうと思う次第である。



――――――


 どうでもいい追記。

 デスクトップやらIEのお気に入りやら、要らない・見ない無駄なファイルやらが多過ぎる。おかげで即時検索性が損なわれ、本当に必要な情報が取り出しにくくなっている。
 
 どうやら俺のPCにも事業仕分けを行う時がやって来たようだ……。






Last updated  2009.12.10 22:17:58
コメント(0) | コメントを書く
2009.12.07
カテゴリ:日常の出来事
「坂の上の雲」を観た。

 第一話「少年の国」を見逃してしまったので、第二話「青雲」から観たのだが、これが、大層おもしろかった(ちなみに、司馬遼太郎による原作小説は未読である)。
 聞くところによると、本作は大河ドラマとは比較にならないほど莫大な予算が投ぜられているのだとか。だからという訳でもなかろうが、映像や演出の造りが丁寧で安心して楽しめる。NHKの、異様なまでの力の入れようが窺い知れるというものだ。

 第二はでは、やはり、主人公である秋山真之と親友の正岡子規が、学友たちと無銭旅行を敢行するくだりが最も印象深い。山一つ越えた先に見える広大な大海原は、理想に燃え自己の生き方に苦悩する青年たち――ひいては列強諸国と対等の地位になるべく必死にもがく近代日本が見つめる『世界』の像だ。
 解りやすいといえばあまりに解りやすいメタファーだが、だからこそ、映像を通してストレートにメッセージが伝わってくる。素晴らしい場面だった……。






「坂の上の雲」で思い出したのだけれども。

今日の授業で、先生が人材育成に関して山本五十六の有名な「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」を引用されていたのだが、その際、「秋山真之は山本五十六の部下」という旨の発言をしていた。
 
 おそらく、東郷平八郎と言いたかったのではないかと思われる。






Last updated  2009.12.07 22:46:43
コメント(0) | コメントを書く
このブログでよく読まれている記事

全1597件 (1597件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 >


Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.