tartaros  ―タルタロス―

2008/07/28(月)23:52

つまりこれ、暗喩的表現を用いた社会批判漫画って事ですか?

読書(160)

徳南晴一郎「怪談人間時計」読了。 奇怪な、実に奇怪な……そして不条理な漫画。 ――――――― 一読してまず最初に意識の端に引っかかるのは、言うまでも無くその独特な「画風」であろう。 一見すると単に下手な絵であるようにも見える。奇妙に捻じ曲がった空間、有り得ない動き方をする人体は、しかし、画風の美醜という判断基準をさえ超えて、意図的に歪んだセットで撮影した、かの「カリガリ博士」を髣髴とさせる「ここではない、何処か」の世界へと読者を誘うのである。 そして、「カリガリ博士」がフランシスの妄想の世界で紡がれる物語であったように、この「怪談時計人間」収録の表題作「時計人間」もまた、多分に通常一般の意識を遥かに超越した、別世界の物語とでも言うべき(くどいようだが)奇怪な作品である。 ――――――― 「信念があって」学校に行かないと主張する人間不信の少年「声タダシ」は、時計屋の一人息子である。彼は自宅でお気に入りの時計たちと戯れる事を日々の慰めとしている。 野次馬たちの無慈悲な視線を浴びて、その俗悪さに恐怖と嫌悪を抱く彼にとって、そうした自らの世界へと没入する事が唯一の救いであったに違いない。意図的に世界との交渉を拒否し続けて内なる世界へと潜る、それが「信念」なのだろう。 しかしある時、彼の愛する時計たちはいちどきに時を刻むのを止めてしまうのだ。そして、彼が父からもらった腕時計も、いつしか3時間早く進むようになる。 後述するが、この「3時間早く進む腕時計」は、タダシを取り込まんとする恐怖への大きな伏線であり、交渉を拒否していた世界との壁に穴が空き始めた事を示しているように思われる。 実にこの時が、タダシを襲う恐るべき運命の端緒であった。 不登校である彼のもとには、立て続けに二人の家庭教師がやって来る。一人目は声家との間にトラブルを起こしてすぐにやめてしまうが、二人目の家庭教師――奇妙に丸くて大きい頭部を持った、まるで時計のような姿をした老人である――はスパルタ教育によってタダシを愕然とさせる。 毎日何時間も勉強させられるのでは身が保たない。 そこでタダシは、先の「3時間進む腕時計」を使って早く授業を終わらせようと画策するものの、家庭教師からはいとも簡単に見破られてしまう。 家庭教師は新しい腕時計をタダシにプレゼントするのだが、この腕時計が曲者であり、これをはめると気を失い、頭から時計の長針と短針の生えた恐ろしい「時計人間」の住まう国の幻を見る事になるのだ。 終盤の展開を鑑みてこのくだりを改めて読み返してみると、二人目の家庭教師から授業を受けているこの段階において、既にタダシは自らが嫌悪していた俗悪な世間へと取り込まれ始めているように思う。この家庭教師が時計のような巨大な頭部をしているのは、彼が時計人間の国=俗世間からの使者である事を戯画的に表現しているようにも見える。 つまり、この家庭教師はその存在からして、本来的に声タダシという人間の敵に他ならない。 しかし、本来なら敵として嫌悪すべき相手に家庭教師として教えを乞わなければならないという立場は、彼の「人間不信の故に学校へ行かない」という信念と一見矛盾しないようでいて、実は俗界と関わらなければならないという根本的に同一の問題を持っている。その矛盾は、タダシがこの家庭教師に教えられる限り続くのである。 それが、タダシを作り変えていく。意識の上では相変わらず俗悪な世間と人々を嫌い続けていても、彼の内実は着実に醜き世界との同化を始めていた。 家庭教師からもらった時計をはめる度、彼はまるで妄想的な色合いを帯びたような、恐るべき時計人間の国を垣間見る。それは、この時点で既に自己を見失いつつある彼が、自らの「俗世間への嫌悪」というアイデンティティを確認せんとする儚い抵抗ででもあるかのようだ。 しかし、その手段は嫌いで仕方の無い相手からのプレゼントに拠る。これもまた一つの大きな矛盾だ。どこまで行っても、彼は「逃れる」事ができないのである。 ――二年後。声タダシは高校に合格し、田舎の一軒家に家族で引っ越す事になる。 しかし、もう一度思い出して欲しい。彼は、「人間不信の故に学校へ行かない」「信念があって」学校に行かないのではなかったか。そんなタダシが何故、高校生となっているのか。 明らかな矛盾。嫌いきった恐るべき俗世間への抵抗・犯行を繰り返しても、結局はこの地上世界に人間存在が立ち続ける限りにおいて、迎合と吸収を受け入れなければならないという事なのであろうか。 それでも、彼の意識化においては、タダシはやはり家庭教師への憎悪を滲ませる。両親に対して「こいつは人間じゃない」とまで主張する。 家庭教師の魔力によって高校に合格せられたと考える彼は、やはり自分自身が最も嫌いきっていたものへの吸収という望むべからざる展開を迎えても、相変わらず嫌悪を抱き続けている。 しかし――――彼の内実は、家庭教師との交わりの中で、その様相を一変させていた。 ネズミの群れからの攻撃によってバラバラに引き裂かれた声タダシは、肉と血の塊へと変貌するような事はなかった。そうした最期を迎えることができていれば、彼にとってもどんなに幸福な事であっただろうか! 声タダシの死体はそこには無かった。ある物はただ、「古い柱時計のこっけいな二つの残骸だけだった」。 そして、彼の内臓が「もう一年も前から歯車やゼンマイにとって変わられていた」事が明かされるに及び、この物語は終結する。 ――――――― 人から時計への変貌。 声タダシの抵抗は、失敗した。彼もまた、自身の嫌悪と恐怖の対象であった時計人間の一人と化していたのである。 世間一般に存在し、街角を闊歩する恐るべき時計人間を社会通念上における、いわゆる「常人」の比喩と見るならば、人間不信のために家族以外の人間との交わりを絶っていた彼は、いわば一種のアウトサイダーだ。常人の対比であれば「狂人」という事にでもなるのかもしれない(家庭教師からプレゼントされた腕時計をはめて夢幻の世界に迷い込んだタダシが、時計人間から『お化け』呼ばわりされるシーンがそれを象徴している)。 常人とは、すなわち歯車やゼンマイに支配され、頭から長針と短針の生えた「時計人間」に他ならないとすれば、時計人間の集合体であり、時計人間の作り上げた産物である社会に抵抗した声タダシ少年の存在は、果たして何を意味しているのであろうか? 「常人」は、まるで時計のように血の通わぬ機械の如き酷薄な存在なのかもしれない。 物語の冒頭に引用されているラ・メトリーの言葉は、そうした事実を物語っているような気がしてならない。 すると「狂人」声タダシ少年こそが、もしかしたら真に血の通った人間らしい人間だったのではないだろうか。 しかし、それを確かめる術はもう、タダシ自身が時計人間と化してしまった時点で消滅してしまった。 我々――時計人間が繁栄を極めるこの地上世界においては、彼のような大勢と異なる存在はアウトサイダーである。 いつの間にか「人間」と「機械」の主客が逆転……否、むしろ「人間こそが機械」である世界では、本来の「人間」が排除の対象なのだ。 その人間もまた、この時計人間の世界で生き続ける限り本人の意思とは無関係に、時計人間として生活する道を選ばなければならないのであろう。 それは、一個人が力の限り抵抗したところでどうにもならない動かし難い重石であるのかもしれない。 その重石を跳ね除ける事は、哀しい事に――不可能なのだ。 ――――――― 追記 作品中に「常人」「狂人」という表現が登場する訳ではありません。念のため。

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