2008/08/03(日)22:25
変わったもの、変わらないもの
一日のほとんどを寝転がって過ごしました。
時々、居眠りさえしました。
別に疲労しているわけでも、怪我や病気をしている訳でもないというのに。
健康体であってもグダグダしてると眠りの世界へいざなわれるというのがよく解ったよ。
こうして人は駄目になっていくのだろうな……。
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橋本紡「流れ星が消えないうちに」(新潮文庫)読了。
巻末の解説で重松清(!)が書いている通り、この作品は「喪失と再生の物語」と読むことができるだろう。
加地が不慮の事故で故人となってしまったことで、加地の恋人だった奈緒子と、加地の友人・巧の心には、ポッカリと大きな穴が開いてしまった。
奈緒子と巧は恋愛関係になるが、それでも、今はもう居ない加地の存在がずっと心に引っかかり続けている。
失った物が大きければ大きいほど、悲しみはより大きくなっていく。
しかし、人はその悲しみさえも受容して、未だ終わらぬ自らの生を全うしなければならない。
否、全うせざるを得ない。
悲しみさえも糧として、もう記憶の中にしか存在する事のなくなった加地の笑顔を心の内に留めながら、奈緒子と巧は生きていくのだ。
しかし、それはたった二人だけで生きていくのではない。
「僕の右手は、今も加地の右手を掴んでいる。
加地の左手は、奈緒子の右手を掴んでいる。
そうして僕と奈緒子は繋がってきた。加地という男をあいだに置いたまま、生きてきた。けれど、そんな関係は終わりにしなければならない。奈緒子はもう、終わらせようとしている。僕だって、今と同じというわけにはいかないだろう。加地と手を離すって意味じゃない。それは無理だ。僕たちはあいつを大切にしすぎてきた。加地と繋いだ手はそのままだ。けれど、僕と奈緒子にはそれぞれ、空っぽの手がまだひとつずつある。
その手を直接繋げばいい。
僕の右手で、奈緒子の左手を、ぎゅっと握りしめよう。」 (第六章 復讐ノックダウン)
非常に月並みな言い方をしてしまうのであれば、加地という人間は、これから先も奈緒子と巧の心の中で生き続ける。
だけれども、思い出に二人がいつまでも囚われている状態を意味しない。
加地が確かに存在していた証を共に持ちながら、同時に二人は、ようやく「二人」の人生を歩み出した。
死んだ人間はもう絶対に戻って来ない。
それによる「喪失」を克服して、二人はようやく「再生」したのだ。
それは、「リバーズ・エンド」の拓己や、「半分の月がのぼる空」の裕一と里香がそうであったように。
悲しみは消えない。決して癒えない。
けれども、残された人が自らの内に絶望と希望を同居させながらも、なお失われた人の事を愛し想い続けるのは、無意味な事ではないと思いたい。
誰かに愛され続けれるその限りにおいて、死者はまさしく「生き続ける」。
そして、それを糧としながらも新たな日々を送る事のできるのは、生きる者の特権である。
死者が愛される事で生き続ける事ができるように、生者もまた死者と共にその思い出を胸にして、生者同士で手を繋ぎながら生きていく事ができるのだ。
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読後にひどく安心した。
「ああ、やっぱり橋本紡は橋本紡なんだな」と。
何となく、著者が「半分の月がのぼる空」で試した物を結実させたような印象を受ける。
そこに「一晩中、涙が止まりませんでした!」的な感動は、ハッキリ言ってしまうと存在しない。
しかし、何でもない人たちが織り成す何でもない物語こそが、時に読む者の心に強く強く訴えかけて、且つまた、決して忘れる事のできない染み渡るような感動をもたらす事もある。
「半分の月をのぼる空」を読んだ時の静かなる感動が、数年振りにこの心に去来した。
実にすばらしい恋愛小説でありました。