tartaros  ―タルタロス―

2008/12/10(水)23:49

危険を孕む安心

読書(160)

斎藤貴男「安心のファシズム ―支配されたがる人々―」(岩波新書)を読んだ。 ところで、俺はどちらかといえば「右」寄りの人間だと思っている。 この本の著者は思想的に「左」であるらしく、言葉の端々にそうした観点からの意見と思われるものがある。また、この本の版元は左派出版社として有名な岩波書店なので、個人的価値観との相違のためか、違和感を感じざるを得ない部分が多々あった。 だから、俺がこの本の内容を考える上ではそうした部分を若干差し引いて考えなければならないのだが、それでも自分と異なる視点から語られる意見というのも、自らの視野を広げる上では大いに役立つと思う。 国家による管理体制を布くという時、あまりに性急では国民の反発を招きかねない。酷い場合には支配体制そのものが瓦解しかねない。だが、表向きには国民にかつて無いほどの利便性を供給し、その実そうしたシステムを巧みに運用して為政者側に都合の良い管理体制が造り上げられている。本書で述べられているのはそうした危惧である。 それは例えば携帯電話の通信網であるし、自動改札であるし、監視(防犯)カメラである。いずれも、民衆の生活利便性向上に大きく寄与するとして概ね受け入れられているものであるが 、著者はこれらのテクノロジーによって知らず知らずのうちに国民が「自由からの逃走」を行っているのではないか、と警鐘を鳴らす。 本書の中では度々、ジョージ・オーウェルのSF小説「1984年」を例に出しているが、少なくとも著者の危惧する世界は「1984年」でなくともレイ・ブラッドベリ「華氏451度」であるし、あるいはトマス・モア「ユートピア」でもある。これらの文学作品に共通しているのは、いずれも政府による国民の管理体制が完備され、価値観の画一化が図られているという点に他ならない。 「1984年」は未読なので詳しく言及できないのだが、著者の主張を信じるのであれば「華氏451度」のような、為政者から与えられるテクノロジーによる快楽を至高と感じ、「ユートピア」のように国家に属しその運営(労働)に参加する事こそが全てだという国に、この日本は次第に変貌している。 それは左派論者の杞憂だと考える事も可能だ。だが、知らず知らずのうちに為政者の国民管理体制が整備されていくという脅威それ自体は、決して杞憂ではないと思われる。 こうした管理国家の奇妙にして精巧な点は、国民が圧政を圧政と気が付いていないという点ではないだろうか。ヒトラーがドイツ国民の歓呼の中から生まれ出たように、善政という羊の皮を被った悪政・圧政という狼は、国民がそれと気づかぬうちに喉笛に喰らい付いているかもしれないのである。 元より、あまりに急な、為政者にとって都合の良い国造りを試みれば、いくら国民というものが愚鈍でも「これはいくら何でもおかしい」と気が付く段階がどこかで訪れる。だから、表向きでは利便性を供給しておき、その実はアレコレと世のため人のためになるような大義名分を設けて段階的にシステムの整備を行って行けば、異変に気が付くのはごく少数の人々でしかない。そうして出来上がるのは以前より便利な、だがどこか歪な社会だ。だが、大多数の国民は「そう」とは思わない。むしろ現在おかれた境遇に喜びを感じさえしているのである。 こうした巧妙な支配体制の確立が、果たして本当に進行しているのだろうか。そう疑問に思ってしまう事自体が、すでに最大の脅威である「慣れ」の発現という事かも知れない。 本書の第4章では、日本各地で次々と設置されている「監視カメラ」について触れている。防犯効果を期待されて設置が促進されたものだ。ちなみに、奥付に拠れば本書の初版は2004年7月21日。4年も前の本という事になる。一頃、監視カメラの存在が国民のプライバシーを侵害しているという批判を頻繁に目にしたものだが、ここ最近はほとんど見なくなったような気がする。果たして、監視・管理社会化は着実に進行しているのか。それとも我々が気が付いていないだけで、水面下では既に、か。 そういえば、Googleのストリート・ビューがプライバシーを侵害する恐れがあると槍玉に上げられた事もあったが、さて。

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