2008/12/16(火)22:49
前者は訳が特徴的、後者は訳が特長的
アリストファネスの喜劇「女の平和」(岩波文庫)を読み始めた。
何か……訳がおかしくないか?
何でギリシャ喜劇なのに「南無三、八幡大菩薩」とかいうセリフが普通に出てくるんだよ。
ギリシャ語の原文に上手く対応できるような、日本語における適当な訳語が見つからなかったのかもしれないが、いくらなんでもこれは萎えるわ。
それほど沢山の作品を読んできた訳じゃないけど、外国の翻訳文学を読んでいて訳に不満を抱いたのってコレが初めてだと思う。
そういえば徳間文庫版の「史記」にも、現代語訳の文章に必要に応じて横文字が使用されていたが、アレは紀伝体で書かれた原文を編年体風に翻訳・再編集した、いわばダイジェスト版みたいなモンだったからまだ許せたんだよねえ。
アントニイ・バージェス「時計じかけのオレンジ」を再読。
最初に読んだ時はアレックスが過去に犯した罪悪と自由意思の剥奪についての関連が印象深かったが、やはり繰り返して読むと印象が変わる。
最初に読んだ時はあまり記憶に残らなかったが(全体として描写それ自体が僅少ということもあるだろうが)、この物語の舞台は明確な管理社会であるという事実が見えて来る。洗脳によって社会的な善を志向した行動しかとれなくするのは、国民を管理統合して安全な社会を造るのには実に合理的といえる。誰も死なないし何も破壊しない、けれども形を変えた思想統制だ。暴力と犯罪とセックスに生きてきたアレックスという少年を主人公とすることで、それは殊更に強調される。この「時計じかけのオレンジ」という物語は、アレックスがどうしようもない犯罪者だからこそ意味が有るのだ。だからこそ「自由意思剥奪の是非」という問題提起を行う事が出来るのだし、大人になって自らの意思で暴力から足を洗うという、自由意思による暴力の放棄という選択肢を提示する事もできる。
ただ、最後の章でアレックスがうそぶいている通り、将来産まれてくるであろう彼の子供が暴力の道に走るのを、彼は止める事はできない。誰にも止める事はできないし、誰もが誰もを間違った方向へと進むのを止める事はできないに違いない。
自由意思の尊重とは、時として人間を増長させ残酷な結果さえもたらしかねない。
この事実が存在している限り、この小説で描かれるような、いわば「悪意」を去勢するかのようなシステムの構想が死ぬ事は無い。人間という同じ人間を御し難い生物による社会が存続する限り、それはずっと続くだろうと思う。
そして、「悪意」の去勢を行った者たちに反対することが正義たりえるのだろうか?
アレックスが更生に成功した犯罪者・あるいは政府の犠牲者として体制側と反体制側の双方から政争の具にされたように、どちらもが結局は自らの政治目的のために彼を利用しようと虎視眈々と狙っていたのであった。どちらにも一応の正義はあり、そしてどちらもが偽善である。
どんな目的を標榜していても個人が何らかの形に定義されて管理される限り、アレックスはやはり自由意思を剥奪された「時計じかけのオレンジ」でしかなく、どちらの陣営に属してもそのように生きる事を求められ続けるのではないだろうか。
集団に属する個人が何らかの形に、「彼の性質は、こうである」と明確に定義づけられなければならなくなった時。
彼も既に、今や「時計じかけのオレンジ」と化しているのである。