2009/01/08(木)23:18
賢者タイムは緩やかな死
相変わらずジョルジュ・バタイユの「エロティシズム」を読んでるんだけれども。
学術系の本を読む度に「難しいけど、面白い」と言っている気がするが、やっぱり「難しいけど、面白い」。マジで。
でも、たいがい↑みたいな感じになる。
根底に在るものをムリヤリに要約してみると、そこで述べられているのは“禁止”と“侵犯”において、“死”と“セックス”は根本を同じく(あるいは近似の存在)するという考えだと思う。
労働の発生、とはつまりそこから人間が文明・社会を作った事だが、こうした共同体を運営するためには内部における秩序を保つための“禁止”が必要となってくる。それは殺人の禁止であり、好き勝手にセックスばかりしないようにして労働の効率を低下させないようにするための禁止でもある。
有性生殖を行う動物は個体ごとに他と交わる事の無い「不連続性」を持っている。セックスによって子孫を残すという行為は、雌雄二者の不連続性を破壊=死を迎えることによって二者の結合による新たな「連続性」を生み出すことである(厳密には、もっと違う定義であるけれど)。
セックスとは生の希求であると同時に、それを行う生物自体は死を迎えるという二義的なものでもある。ところが人間の場合、共同体運営のためにセックスに対する“禁止”を課した。バタイユが言う「エロティシズム」はその点に依拠しているように思われる。つまり、“禁止”を乗り越えるための“侵犯”の欲求が発生する。人間を人間たらしめているのはまさにこの点であり、セックスという行為に“禁止”を課したがために、“暴力”によって“侵犯”を果たしたいという考えが誕生した。セックスは通常、隠れて行われるべき行為であり、つまりそれは“侵犯”にともなう後ろめたさ故ではないかと思われる。そして、“禁止”を乗り越えて“侵犯”を行うためには“暴力”が必要となるのであった。
同様の事は“死”についても言えるのであり、共同体は殺人を“禁止”しているにも関わらず、戦争や神への供儀など、何らかの形で“暴力”の発露、さらにその最も顕著な形である“死”を肯定する場合がある(バタイユはこれを『儀礼的侵犯』と呼ぶ)。
本来“禁止”されているはずの行為を“侵犯”する事によって人間は喜びを感じ、そのための“暴力”ですらも時には正当化される。“侵犯”に基づくセックスに魅力を感じるのはそのためであり、「不連続性」を破壊して=自らは死して新たな「連続性」の発生(社会への“贈与”)させる事は、“死”を抱えた快感だ。神への供儀もまた「連続性」の獲得を意図して行われるように、“禁止”を“暴力”によって“侵犯”する事は「連続性」産出への願望=エロティシズムに突き動かされた“生”の希求の裏に存在する“死”と相見えることでもあるのだ――。
死の不安は人をかならずしも性の快楽へかりたてはしない。だが性の快楽は、死の不安のなかにあると、いっそう深くなるのだ。
(第1部 禁止と侵犯 第9章 性の充溢と死 p173)
と、今まで読んだ所まで自分なりに(大雑把に)纏めてみたのだが、まったく理解できている気がしない。いつもの事だけど。確実にどっか間違ってるぜ。気になる人は、自分で本を買うなりして読んでみてください。面白いです。
中二病患者とか邪気眼能力者な人たちなら、心底からハマり込める思想かもしれません(もちろん俺も例外ではない)。