カテゴリ:政治評論
・真紀子女史/怪気炎「政府・与党なぜ攻められぬ」・
「これだけ問題がある政府・与党をどうして攻められないのか」などと気炎を上げた。 11月25日、小泉政権の「生みの親」を自任する田中真紀子女史(元外相)が民主党の小沢一郎副代表を支持する同党若手議員の会合で講演し、小泉政権を批判した。 真紀子女史は自ら外相として支えた小泉首相の外交姿勢を「対米追従」と決め付け、公明党についても「もともとは貧しい人の立場で政策を正論としてきた党だ。(連立で)党が違う方向に行っているが、平然としている。党幹部が官僚化している」などと批判した。 「会期延長を迫って民主党が一丸となって動くべきだ」とハッパをかけながら、民主党執行部の国会対応に疑問を投げかけた。真紀子女史は「政治家は正論だけを吐き続けるべきだ。小沢氏のようにぶれない政治家が民主党には必要だ」と小沢氏礼賛で締めくくった。 が、党副代表の1人に加わった小沢氏も党役員、同執行部の1人であることを真紀子女史は知らないのか? 「政治家は正論だけを吐き続けるべきだ」と説いた真紀子女史であるが、自らの多くの言行不一致で、いたずらに外務省を混乱させ、日本外交の停滞させた責任をどう考えているのか。真紀子女史のアタマの中身はどうなっているのか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今から34年前の昭和45年(1970)の11月25日、天才作家と呼ばれたノーベル賞候補であった作家・三島由紀夫氏が自ら主宰する「楯の会」の森田必勝学生長ら4人と東京・市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部(防衛庁と自衛隊東部方面総監部の所在地)を訪ね、憲法改正のための自衛隊決起を訴えた。その後、総監室で三島氏と森田氏が割腹自決を遂げた。 三島氏が訴えた憲法改正は34年の歳月を経て、ようやく政治の場で議論されている。 三島・森田両烈士を偲び、その意志を継承する目的で毎年11月25日に行われている<憂国忌>に関して、評論家の宮崎正弘氏のメールマガジン「国際ニュース・早読み」に<憂国忌のご報告>が掲載されている。以下はその全文の転載である。 11月25日、あの天才作家三島由紀夫氏、憂国の諫死事件から34年。第35回追悼会「憂国忌」は天候に恵まれ、例年の九段会館で盛大にして静粛に行われた。全国からの愛国者、三島ファンが集った。会場前にほぼ満員。最近とくに若いひとたちの参加が目立った。 追悼儀式はまず全員が起立して一分間の黙祷のあと、篠沢秀夫(学習院大学名誉教授)が開会の挨拶、つづいて発起人の献花が行われ、井尻千男(拓殖大学日本文化研究所所長)、藤井厳喜(政治学者)、八木秀次(高崎経済大学助教授)、松本徹(文藝評論家)、玉利斉(ボディビル連盟、三島氏にボディビルを直接教えた)の各氏らが粛々と遺影に献花した。 記念講演は元「朝日ジャーナル」副編集長、サイゴン支局長など戦争ジャーナリストとして十数年、ベトナム、ラオス、カンボジアにあった井川一久氏が「三島と保田與重郎」と題した文学的文明的日本論を展開、とくに「エネルギーを、枯渇する石油石炭ガスにたよる物質文明はいずれ戦争を引き起こし、やがては衰退する。日本は自然の独自なエネルギーを発明し、国の在り方として農業を重視し、世界の見本をつくるべきであり、それが保田はイロニーと言ったし、三島や文化防衛論のなかで皇室の重要性を説いた」とされた。 ひきつづき追悼挨拶では井尻千男、細江英公(写真家)、工藤雪枝(『特攻のレクレイム』の著者)の各氏。とくにイタリアのポンペイへ撮影に行かれ帰国したばかりの細江英公氏は、ナポリの撮影現場で多くのイタリアの芸術家がMISHIMAを評価していた事実を紹介された。 第二部の直会では最初に『月刊日本』主幹の南丘喜八郎氏が献杯の音頭をとり、ひきつづき藤井厳喜、田中英道(東北大学教授)、八木秀次、玉利斉、松本徹の各氏が演壇に立たれた。二日前の福岡憂国忌にも出席した西村真吾代議士秘書の佐々木俊夫氏からは九州での三島記念会の盛況が報告された。 会場には堤堯(元『文藝春秋』編集長)、阿羅健一(評論家)、石井竜生(ミステリィ作家)、植田剛彦(評論家)、西村幸祐(評論家)氏ら多彩な顔ぶれがあった。 ◇ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004年11月30日 22時22分43秒
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