カテゴリ:心理学
ぼくは子供のときから朝日新聞で育ってきた。名古屋に就職して中日新聞を読むようになってみて、朝日新聞の校正が如何にしっかりしているかを強く認識した。
朝日新聞を読んでいて、この漢字や表現はおかしいんじゃないの、と思うのは数年に一度くらいなのに、中日新聞では誤字や、間違いが頻繁に出てくるのである。その後に読んだ毎日新聞、読売新聞はこれほどのことはないけれど、それでも朝日新聞に遠く及ばない。 朝日新聞は岩波書店と同じように特別の思想で主導されていることをぼくがやっと認識するころ、ぼくたちは中国に行って日本の新聞を読むことがなくなった。そのころ、慰安婦問題で誤った事象を世界中に印象づけたといって朝日新聞は人々から叩かれるようになったのだった。 中国に滞在していた後半は日経新聞を電子版で読むようになったが、時々中国政府が妨害するので読めない時期があり、解約、再購読を何度か繰り返したものだ。今は紙面版も含めて日経新聞を読んでいる。 さて、今のぼくは放送大学の学生をやっている。放送大学の勉強はTVあるいはラジオ放送で送られてくる授業を観る、聴く、ことが主体となっていて、これらはインターネットで随時アクセスできるという便利さに満足している。 これらの授業にはテキストがある。試験勉強をするにはこれらのテキストを読むことになるが、時々誤字があるし、わけの分からない言い回しが出てくる。 最初に面食らったのは「発達心理学概論」で、テニヲハの使い方がおかしいし、受け身でなくてはいけないの能動態で書いてあったりする。日本語は主語を省略することが多いが、それは主語がすぐに分かるからであり、わからないのに省略したら悪文でしかない。 それでも、悪口をいいながも読んで、講師の言いたいことを理解することは出来るが、「錯覚の科学」の80ページでは、理解できない言葉が出てきて、ただ呻吟するだけだった。 フランチェスコ・デル・コッサの「受胎告知」という絵画についての解説である。『つまり、このコッサの絵では、マリアとガブリエルはお互いの姿に目を向けているようで、実際には、円柱を、そこに暗示されたる受難の相とともに、まなざしているのである』 この「まなざしている」というがわからない。「まなざす」という動詞の活用形として使っていると推定できるが、こんな「まなざす」という動詞は今まで見たことがない。 「眼差し(まなざし)」という名詞があって、「優しい眼差しを注ぐ」みたいに目付き(それもかなり抽象的な)を意味している。この「まなざし」を動詞にしたのだろうか? 「微笑み」と「微笑む」の関係のように。「殺し」と「殺す」や、「伸ばし」と「伸ばす」の関係のように。でも、これらは動詞が先にあってその連用形がそのまま名詞になったのだと思う。 「目指す」という動詞と混用して、「まなざす」という動詞が誕生したのだろうか?でも、何を意味しているか、全くぴんとこないのである。 それでインターネットで調べてみた。「まなざす」については結構投稿がある。そのひとつによると広辞苑第6版には、「まなざ・す【眼差す】(マナザシの動詞化)視線を向ける。見る対象とする。指向する。」と載っていると指摘されている。しかし、辞書にその言葉を扱っているのは広辞苑第6版だけであって、「そんな日本語はない」という意見が圧倒的だったので、ぼくが認知症になったわけではないと納得した。 では、『マリアとガブリエルは、(そこに暗示されたる受難の相とともに)円柱に目を向けている』ということになる。()内を除けば理解できるが、()内は何だろう。マリアとガブリエルは受難の相をもって円柱を見ているということだろうか。受胎が受難だというのだろうか。理解できない文章は悪文でしかない。 言葉は変化する。誤用だってそれを使う人が多ければ、いずれ大衆化してその言葉に置き換えられてしまう。その発展途上だといえば、そういうことかも知れないが、お尻を後ろから誰かに触られたみたいで、不愉快で飛びあがってしまう。実に落ち着かないのだ。 放送大学のテキストを、偉いと思われている先生たちの書きっぱなしではなく、ちゃんと校正しろよ、ということを言いたい。 こんなことを書くと、高齢になって寛容性のない保守的な性格がでているのだ、と言われてしまうのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.02.16 06:22:16
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