戦時中のセクハラ事件
ぼくの小学校は、現在の東京学芸大学(当時は東京第一師範学校)の附属小学校である。小学校に入ったのは戦前で、小学校の3年生の時に敗戦を迎えた。太平洋戦争は当時は大東亜戦争と言っていたが、アメリカ相手に始めた戦いはだんだん敗色が濃くなり、昭和19年の春、サイパン島が陥落してから東京も空襲のある日が多くなってきた。 それで東京を離れる疎開が奨励されるようになったが、故郷のない人たちは行先がない。大人はともかく将来を担う子供を救おうと、学校ごと東京を離れる学童集団疎開が計画された。この疎開に参加した思い出を、ぼくたちは「Document 学童疎開」に綴っている。 個々の思い出ではなく、学童疎開の記録を調べてその当時の疎開像を正確に記述しようと、同級生の若林茂さんは長年にわたって調べて来て、それをWebsiteに載せ始めた。最近、附小のWebsite の「Document 学童疎開」のところに、若林さんの「附属の學童疎開の記録とその思い出(その3)」が載って、それによると、ぼくたちの学校の学童疎開が世田谷区の手配で松本の温泉にいったとき「セクハラ事件」があって、一人の先生がそれでクビになったと書かれている。若林さんはセクハラ事件と書いているが、朝、女子生徒の寝ているかやの中に男の先生がいるのが見つかったというのだから、それ以上のひどい痴漢事件だ。 私は附小の3組あるうちの2組で、1年・2年生のときの担任は宇津木先生だった、少なくとも2年生の夏までは。小学校3階の屋上で格好の良い宇津木先生を囲んで笑い興じているぼくたちの貴重な写真が残っている。 ところが学童疎開として1945年4月29日に松本に3年生として行ってから卒業するまでの担任は加藤嘉男先生だった。しかし、どうして担任が代わったのか、全く記憶がない。つまり、担任がどうして代わったのか、そのときも知らず(知らされず)、その後の宇津木先生の消息も全く聞くことなかったのだ。しかし今回の若林さんの記録「学童疎開の記録と思い出 その3」を読んで、これが宇津木先生の失踪(というのも変だが)の真相かと思ったのだ。 それで若林さんに尋ねてみた。【松本温泉の学童疎開先で「セクハラ事件」があり、それを起こして直ちに学寮から追放されたのは(元の記録、荒井勝子さんの著作「アルプスよ今日わ」によると)U先生ということです】という返事だった。 U先生というと宇津木先生と結びつく。記録に書かれている追放された先生が宇津木先生かどうかは、これだけでは断定できない。U先生が宇津木先生であるとは思いたくないが、宇津木先生が(若林さんによると私達の2年2組の二学期から、担任を加藤先生に代わって、松本に赴任したという)その後の消息を全く私達に知られることなく行方不明になった理由と、状況証拠としては一致する。 ぼくが上記のような意見を述べると、同級生だったTAHさんは、U先生だけでは他の人かも知れないじゃないかと私の発言を諌めた。たしかにその通りだ。でもさらに若林さんに尋ねると、昭和19年8月に学童を連れて松本に学童疎開した5人の先生のうちで、Uで始まる先生は宇津木先生しかいなかったそうだ。 おまけにTAHさんは、宇津木先生とは「大人になるまで年賀状をやりとりしていたけれど、この件に関する話は一切なかった」と書いてきた。あたかも、その話が出ていないから宇津木先生は無関係なのだみたいに書いている。しかし、担任の宇津木先生がばったりと消えてしまった背景に触れないとしたら、その話題には忌諱が働いていたとしか考えられない。つまり、状況証拠はたいへん黒いものと言わざるを得ない、というのが現在のぼくの心境だ。とても残念である。 小学校時代の先生や親の世代は死に絶えてしまったので真相はこれ以上はわからない。担任が代わった事件の真相は、霧の中だ。