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わたしのブログ

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続きです。

満人との会話で面白いことがあった。兵隊が農家に行き、言葉がわからないので日本語で・・・玉子・・・をくれと書いたら、その男は青くなって逃げ出した。支那語では・・・玉子・・・とは・・・キンタマ・・・という意味なのだ。逃げるのも無理はない。街の中で兵隊が・・・この町には女郎屋があるか?・・・と支那語で・・・ピー、カンカン、ユーマ?・・・と言うと満人はわかったらしく、ナーメンュー・・・と指を刺して教えてくれた。兵隊は・・・オーイ、いるってサー、さぁ、行こう。行こう。というのを聞いた満人は日本語では女郎買いは・・・サーイコ、サーイコ、テンホウ。それから満人は合うと必ず・・・サーイコサーイコテンホウ、というようになった。・・テンホウ・・・とは・・・よろしい・・という意味だ。ピーカンカン・・とは女の局部を見るという意味。いやはや、頓珍漢な言葉のやり取りだ。
 七月頃の夜明け、衛兵所の前を毎日満人の荷馬車がスイカを積んで通る。無言で通ればよいのに大きな声で「イーッ。チョッ、チョッ」馬に気合を入れながら通るので「セヤー」というと「アイャー、メンファース」と私の前に止まる。私は十軒で増そうなスイカを刺して、二三個衛兵所に運び「ツォパー」というと「ホォ、ホォ」といって通っていく。それを皆で食べる。衛生兵はこんなことが出来ないので、軽勤の私がやる。衛兵書の皆が喜んでいる。満人はさいなんだ。セャーは誰かということ。アイャー、メンファースは仕方がない。ツォパーは行け。ホウ、ホウはいいよ。いいょ。ということだ。こんな事を朝飯前というのだろう。
 ある日、事務所にいると二人の訓練患者という使役患者が入ってきた。軍衣を着ているが帯剣なしで私と同類らしい。聞いてみたら伝染病棟にいる使役患者だそうだ。一人は桜木。一人は佐藤という一等兵だ。病党内の使役なのであまり出てこないので知らなかった。十一病棟だそうだ。後でこの二人は終戦後、私と一緒に逃げる途中で死んだ。このことは後で書くことにする。桜木は岡山県出身で佐藤は熊本県出身である。私は軽勤なので院内どこへでも行くが、伝染病棟だけは行かない。知らなかったのも無理はない。また、どこへでも行くので帯剣である。いつも通り夜警に行った七月の終わり頃、どうもいつものとは様子が違うので変だと思い聞いてみた。「今日から実砲五十発もつように」と言われた。


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