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カテゴリ:戦国時代・戦国武将
1582年6月2日 本能寺の変
本能寺の変には 様々な説があります ①「明智光秀 怨恨説」 徳川家康の接待役を解任され、ライバルの秀吉援軍を命じられ 領地没収(丹波・近江)から毛利・吉川家の領地である(出雲・石見)へ 領地を切取らなければ、無一文になり路頭に迷うことになる (現に林・佐久間の重臣も追放されている) 丹波八上城を攻略する際、波多野秀治、秀尚に対して、 光秀の母を人質に出して講和したが、信長が波多野秀治、秀尚 を磔にしてしまい、光秀の母が殺されてしまった 武田氏を滅ぼした後の祝宴の席で、 光秀が「われらも長年にわたって骨を折ってきたかいがあった」と言った後に、 信長が「お前がどれくらいのことをしてきたのか」と 頭を欄干に叩きつけたという逸話もあります ②「光秀 野望説」 有名なのは「ときは今 あめが下しる 五月かな」でしょうか とき=土岐 (明智家の本姓) あめが下しる = 天が下知る (天下を取る) これは5月28日に連歌の会で明智光秀が詠んだとされています ③「長宗我部氏説 斉藤利三説」 織田と長宗我部氏は同盟関係にありました。 光秀の部下 斉藤利三(春日野局の父で有名)と 長宗我部氏と姻戚関係があり、光秀の家臣と長宗我部氏は 多くの婚姻関係を結んでいました。 光秀は取次役を担っていました。 しかし石山本願寺が織田政権に降ったことで、 四国の長宗我部氏の存在価値が薄れたこと 長宗我部氏が四国統一に動いていたことが要因で 同盟関係から敵対関係へと進んでいきます そして光秀は板挟みなります。 斉藤利三はもともと稲葉一鉄の家臣でしたが、仲違いをして 明智光秀に召し抱えられました。利三は明智家の重臣となります。 1582年に稲葉一鉄の家臣那波直治が仲違いをし明智家へ士官します このことを稲葉一鉄が信長に訴え、 信長が出した答えは、斉藤利三の切腹という予想外のものでした これと長宗我部氏との同盟破棄が重なり、斉藤利三が主君光秀に 働きかけたのではないか?という説があります お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年06月02日 07時00分09秒
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