こらむ・アニメ結界師についてまた振り返ってみる<3>(~未完~;)
しばらく放置していましたが、途中まで書いていたアニメ結界師についての考察こらむの続きです~。 →前回の記事 →前々回の記事前回私は、「良守と時音の恋愛模様」を描くためにはこの漫画はもう少し外向的な作品でなければいけなかったろう、といったことを書きましたが…。あんたに恋愛のなんたるかがわかるのか、とか真摯なお叱りを頂いてしまいそうな事を書いてしまっている気もしておりますが、―でもそんな高度なお話でもなくて、単に、「自分以外」に興味がわかなきゃ始まらないよなー。…という、至極身も蓋もないツッコミに過ぎないものでございます;。そして少なくともアニメスタッフの人達はそれと似たような事を考え、アニメ全体に「外向的」な雰囲気を施していったのではないか、と私は今でも思っています。「外向的な雰囲気」とは何か、と問われれば、それはやはり「自分以外の外の世界により興味を持つこと」だと思います。そしてそれを施す「方法」として一番効果的なのは、「『自分について』ウジウジ悩んでるシーン」の比重を原作よりも軽くすることでしょう。放送当時、結界師の特徴として挙げられると思う「良守の必死な表情」の描写がよく削られていたように思いますが、(当時不満の声が多かったです)落ち着いて考えると、ああいう印象的なカットって結構諸刃の剣なんですよね~;。そんなカットの比重が多い事は、それだけで「良守は今こんな感情である~」「良守は今こんなに必死なんである~」「良守は…」と、「主人公がそんなに必死になった理由」より、自然に「その理由によりこんなに必死になった主人公」…の描写の方に作品の比重が傾いてしまうように思います。―けれど、ここでもしその必死になったというテーマに「恋愛」を据えるなら、その「理由」はこの場合自然に、―「ヒロインが『魅力的』であるため」…といったものになるでしょう。そーすると、きっと困った問題になってくる;。なぜかって、『魅力的だから』が=理由であるのに、作品中の描写が自分>>>>理由のまんまでは、ぶっちゃけイコール―『自分>>>>ヒロインの魅力』という扱いと等しい事でしかなくなってしまうから;。魅力というのは、「惹き付けてしかたのない力」という事であるはずなのに、それが主人公の内面問題より格下になってしまっては説得力が微妙です;。純愛物語として描こうとするならなおさらそれは命取りでしょう;。結果、アニメ結界師は良守の内面葛藤の描写は最低限にそぎ落とし、ヒロインの時音の比重を持ち上げるため黒芒楼戦に時音を参加させ、最後は良守と時音の対等な背中合わせでしめくくったんだと思います。―なぜならアニメスタッフはきっと私みたいなのと同じく、結界師の物語の主軸を「良守と時音の恋愛模様」だと信じていたから。…けれど…、今にして思うと、やっぱりそのスタッフさんたちの判断は間違っていたのかもしれない。この物語の真の主軸は、あくまで「良守の内面」であって…、―ぶっちゃけ、「良守が恋愛が出来るようになるまで」の成長物語というものにすぎなかったのかもしれない。web拍手を送る