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氣功講師 春喜のブログ

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2018年03月31日
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カテゴリ:とりとめのない話

画像は、二十代から三十代初めにかけて夢中になっていた、キットで買って自分で作ったカナディアンカヌー

 ワーゲンビートルに積んで走ると、かなり目立った()

 

 

誕生日が近づくと、たまにエントリーしている話。それは~

僕は、なんとか産まれることができたって話し。

 

 

*******************

 

 

ひと時代前、悪さをした子供に親が言う決まり文句があった。

「お前は橋の下で拾ってきた子だ」

 

 

「そんな悪さをする子供はうちの子供じゃないぞ!」っていう親の脅し文句だが・・・

 六つ上の姉は言われたそうだが、思い返しても僕は親にその定型文を言われた記憶が無い。

 

 良い子なので言われなかったわけではなく、かわりに言われ続けていたのが「お前はなんとかこの世に引っかかって産まれてきた」ってセリフ。

 

 「危ないところを、なんとか産まれてきた」と言う意味らしい。

 

 

*********************

 

 

姉は「弟ばかり可愛いがられていた」と言うが、たしかに我が両親は僕に甘々だったと思う。

 

よく風邪を引いたり熱を出したりの弱い子供ってこともあったが、その甘やかしかげんは、それこそ真綿にくるんで育てるような感じだった。

 

その当時の子供なりの悪さはひと通り、いやそれ以上だったが、悪さをしてもあまり怒られたことが無い。

 

怒られはしなかったが、小学五年に柿を盗りに行って、となりの屋根から落ちて屋根を壊したのはまずかった。(さすがに翌年に一週間、禅寺に放り込まれた)

 

怒らずに禅寺に放り込むあたりが我親ながら変わっている。

 

じつは、表沙汰にならなかった悪さも数々あって、もしそれらを両親に知られていたら、一週間どころかひと夏禅寺に放り込まれたはず()

 

禅寺に放り込まれても更生することなく、中学のときは数か月の保健室登校に、全生徒から嫌われ者の先生の音楽の時間に、音楽教室で爆竹を鳴らして大騒ぎ。

 

やっとこさ~高校に入ったとたん毎日バイトに明け暮れ、バイトが終わっても家に帰らず、親友とコーヒーにジャズに飲酒三昧。

 

我家の離れ一軒を部屋代わりに使い、バイトのお金でウイスキーやカクテルリキュールを買ってスプライトで割っては、堂々と部屋で独り呑みするドリンカー高校生()

 

高校二年にして友人の家にあった250ccのバイクを無免許で走らせて交番に連行され、勝手に家の車を持ち出して無免許で農道を乗りまわしたあげくに、酔っ払い運転で田んぼに落ち、一晩かかって泥だらけで引き上げる。(どれも表沙汰にならなかったので停学退学はまぬがれた)

 

基本、大勢でつるむのが好きではないので、友人と二人か、ひとりでの犯行。

ついには、高校三年の夏に家出同然で飛び出して、ひとりで北海道まで40日間の自転車旅行。

 

東京の文化服装学院に入るも、二年間の基礎科程終了後に、せっかく受かって親がお金を払ったディスプレイ科を入科直前でやめて大阪のブティックで働き始めれば、働きすぎの過労で三年間に二回の入院。

 

20代でブティックを経営したものの、ストレスによる十二指腸潰瘍で数度の入院に、10年目で赤字撤退。

 

まるで糸が切れた凧のような30代初めは、無謀な結婚をしたあげく、壊滅的な失敗。

 

その後はパート程度にしか働かずに、野山をオフロードバイクで走りまわり、カヌーに登山、スキンダイビングにショートのトライアスロン。

 

そして、残りのすべての時間をヨットについやす。

 

大きなカナディアンカヌーを乗せたワーゲンビートルが家の前にとまっていて、オフロードバイクをバリバリ言わせてどこかへ出かけ、大屋根からヨットのセールを吊るして乾かして・・・

 

近所からは「尾花屋のバカ息子」呼ばわり()

 

もちろん両親もそれなりに文句は言ったが、結局のところ思い通りにさせてくれた。

 

折々に両親が言うのが、「お前はなんとかこの世に引っかかって産まれてきたんやでな~」

こんなに出来の悪い息子でも、「生きているだけでもめっけもん」と思っていたのだろうか。

 

*****************

 

出産前に母が大出血を起こし、母体を取るか子供を取るかの瀬戸際だったと聞いている。

 

母体が残れば次の子供もありえるので、母体を生かす判断が正しかったに違いないし、そうなるところだったのだろう。

 

その瀬戸際に、輸血かなにかのために産院に駆けつけた母の叔父「八田のおじさん」が、瀕死の母に「死んでも産め!」と、すごい大声で怒鳴ったそうだ。

 

そこで母が奮起! 結果、運よく母子ともに無事。

 

きっと、一時はあきらめた子供だったのだから、父や、命がけで産んだ母の安堵はどれほどか想像がつく。

 

そして、息子に甘々な親が出来上がる。

 

大騒ぎの出産のときに、産院の近くが火事で、母はかなり心細かったらしい。

 

産院の桜が満開で、あげくに付けた名前が「春喜」なんて、名前からして親の喜びようがわかる。

 

34年四月の事。

 

*******************

 

僕は、親がかけてくれた愛情になにも返すことができなかった、ごくつぶしの親不孝な息子だ。

 

無鉄砲で無軌道な生き方ゆえの沢山の失敗で、心配はかけても、両親を安堵させるようなことはなにひとつできなかった。

 

それでも両親は、「お前はこの世に引っかかって産まれてきたんやでな~」と、言い訳とも納得ともつかない言葉で息子を許し、愛情をそそいでくれたと今更ながら気づく。

 

いまこの世に生きているのも、亡き両親と、瀕死の母に「死んでも産め!」と激を飛ばした「八田のおじさん」のおかげ。

 

僕が、「今生きている」ことを貴重に思う気持ちが他人より強いのも、あのとき「産まれなかったかもしれない」という思いがあるからだ。

 

僕は、なんとかこの世に引っかかって産まれてきた。産まれただけでも丸儲け。

せっかくの命、せめて少しでもこの世のために役に立てないと申し訳ないと思うが・・・

 

まわりの人達に助けてもらうばかりで、なにも返せていないな~。

 

 

天合流氣功のホームページ

http://tengouryukikou.com






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Last updated  2018年03月31日 01時40分42秒
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