天神川は、平野を蛇行して、長瀬の東を通り橋津川に流れていました。
これを見ただけで、鳥取中部の暴れ川という別名をもつ天神川、しかも小鴨川、甲府川という、いずれ暴れ川の名に値する支流を合流させての暴走は、どんなものか、大雨の時は想像を絶します。
古地図をいただきましたのは、橋津歴史塾からですが、日本海が北側で、西側の小さな川が天神川です。東郷荘の領地をあらわしたもので、天神川は参考程度ですので小さくあらわしてあります。
実際の航空写真では西側(左)に大きな天神川がうつっています。
現在の天神川は、最短距離で、日本海に通じています。
たび重なる洪水被害を少なくするために、流路をとざしていた安山岩脈を開削して直線に流路を求めたのが、寛文年間(1662-1672)郡代由宇勘平がてがけ、元文年間本格的に東村勘右衛門設計し米村所平が施工して完工したようです。
安山岩山塊の天神山の北野天満宮横が、開窄場所になってるところから、天神川の名がついたようです。
さて、倉吉では、天文の洪水(天文13年1544)で山名で栄えた見日千軒の繁華街が流出、小鴨では、八幡山麓鹿首村が流出、両方とも、河道となり、見日は打吹山麓の現在地に移転し、鹿首は、小鴨川が平野の西側天神野麓から東側に流路をかえたので、川の西側に生田、丸山と移転しました。
天文の洪水から、70年後、里見忠義公は倉吉にきました。
戦後70年が今です。あの戦争は知らんが大多数、傷跡もほとんどありません。
しかし同じ70年でも、これだけの打撃の水害、復旧は一部で、まだ大荒れではなかったでしょうか。
先日の鬼怒川の堤防決壊の状況を、映像で目の当たりにして、天神川の当時を想像しました。
里見忠義公来倉後、3年して伊木長門守忠貞公が長門土手の洪水対策しますが、これも未復旧の所が多かったのではないでしょうか。