6、「はい、喜んで」を合言葉に
私は毎晩のようにM一等兵を訪ねては、いろいろと教えを受けました。
天網恢恢疎にして漏らさず という老子の言葉を話してくれたことがあります。
天の網というのは粗いように見えるけれども、針の孔一つ見逃さない。実に正確に見ている。本当に良い事をすれば良い報いがある。どこにあるかといえばあなたの魂を磨いてくれる。逆に悪い事をすれば、泥をかぶせられる。監視兵は、ほとんど回ってこなくなったが、だからといって、さぼっていたら、天が見ているぞ!というようなことを教えられた。
それらをすべてを信用しようとは思いませんでしたが、M一等兵の言葉はいつも鋭い確信から発せられました。
とこらが、それが現実のものとなったのです。
私たちの明るい作業振りをどこから見ていたのか、穴を掘っていたすぐ側のベアリング工場の所長が感心して、収容所所長に、「彼らを工場にもってきて働かせたい」という嘆願書を送り、私たちの運命と境遇は、またまた、変わることになったのです。
その頃私たちのグループも20名ほどになっていました。
捕虜根性でジメジメさぼっているより楽しそうに明るく仕事をした方がよいと思ったのでしょう。いつのまにか増えていったのです。
そして、その全員がベアリング工場に移転する事になりました。
工員は、ほとんどが女性ばかりで、その中に明るい日本の青年が入っていったのですから、工場は一段と活気ずきました。
私たちの仕事は、はるかに経労働に変わりました。
直接指示するのはイエイマーという35・6歳のちょっとした美人です。
私は代理通訳のようになって毎朝その人の指示を仰ぎにいくのですが、M一等兵のアドバイスもあり、いつもきちんと、ひざを折って、目を輝かせて、「はい、喜んで」と挨拶して命令を受けてきたのです。
するとそのイエイマンさんの顔にパアッと紅がさし、嬉しそうな表情をすることに気付きました。それからというもの私達のグループはみんな「はい、喜んで」という言葉を合言葉のようにしてソ連人と会話することにしました。
やがて1か月が過ぎ、食糧の配給の段になると驚くなかれ、私達には、120%という伝票が手渡されたのです。それまでの倍もの食糧を手にすることができたのですから、久しぶりに満腹の気分を味わったものでした。
たった一言の挨拶で、職場は明るくなり、自分たちは捕虜根性から脱却できたのです。
昭和22ねん11月。私達は日本に帰還することを認められ、ベアリング工場を後にして、捕虜収容所の本部のあるマルシャンスクに戻りました。
ここでも私たちは自らの修行のため一生懸命働きました。
それはソ連兵の認める所となり、最終日には所長がわざわざ挨拶に来て正門に整列した帰還第一陣120名をねぎらってくれたのでした。
それにしても、昭和22年2月18日。あのMという一人の人間に出会わなかったら、私はとうにシベリアの酷寒に身を埋めていたかもしれません。
長い人生のそれは一瞬の出会いでした。
私に強烈な魂を叩き込み、人生観を一転させてくれ、その行動を確信したMさんはその後、他の収容所へ移され、それきり会うことはありません。
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