大阪の聖アンデレ教会へ「糾す会」がビラを撒きに行かれた時、京都教区の方もお一人いらっしゃったそうですね。お名前どころか、性別も年齢もメールには記されていませんでした。当然のことだろうと私も思います。現在の京都教区では、名前が判った瞬間に強烈なイジメが行われることは目に見えています。日本聖公会の中で、イジメが公然と行われてきたことは、私の知り合いのことを考えればすぐに判ります。また、女性への司祭按手に関して反対を唱えていた人々への様々な罵倒が繰り返されていたのも事実です。
そして、女性の人権という観点から、ことにフェミニズムを容認する立場から女性への司祭按手を肯定する人々に対して、その議論の神学的無効性を主張していた私の知り合いに対して、誹謗中傷以上の言葉を投げかけた方が、京都教区で司祭をしていらっしゃるようですね。昨夜、電話でやっと聞き出すことが出来ました。その方は、障害者問題に関わり、原発反対運動もされていたようです。それでいながら、京都教区での女子児童に対する準強制わいせつ事案に関しては、まったく沈黙されています。
他の主教さんたちもそうです。女性司祭按手に賛成しなければ主教になれないような雰囲気が日本聖公会の中になかったでしょうか。私の知り合いや日本聖公会の司祭さんたちとお話ししているとそれが感じられていました。私は、司祭按手を受けられた女性を存じ上げております。あの方が、キリスト教会の聖職になることに私は何に問題も感じていませんでした。私の周囲には、他教派ですが、女性の牧師さんが大勢いらっしゃいます。しかし、彼女たちが聖職になったのはフェミニズムを根拠にした神学ではありませんでした。改革派系の教会では今でも女性の聖職を認めていないところがありますが、多くのプロテスタント教会は女性牧師がたくさんいらっしゃいます。それは、女性の牧師でなければ出来ない教会の大切な仕事があるからに他なりません。たとえその仕事が数が少ないことであっても、それを遂行するためには女性牧師でなければ出来ないことであれば、女性が牧師であることも教会として許されるという考え方があるのです。
日本聖公会はいつの間にかフェミニズムに毒されてしまって、聖書の信仰から離れてしまったようですね。そして、そのフェミニズムによって、神による被造物としての人間に対するユダヤ教以来の大事な神学を見失ってしまいました。どなたか判りませんが、ヤフーのサイトに「日本聖公会にもの申す」というブログを立ち上げた方がいらっしゃいます。日本聖公会のことに詳しい方なので、現職の司祭さんかもしれません。ヤフーのトップページで、「日本聖公会にもの申す」と入力してブログを検索するとヒットします。どこのどなたかはまったく判りません。メールを出してみたのですが、届いていることは届いているようですが、ご返事は頂戴出来ませんでした。日本聖公会に関して、かなりいろいろなことを知っている方のようです。関心のある方は、是非お読みになってみて下さい。
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Last updated
2007.11.22 22:00:18