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東日本大震災  自衛隊 放射能拡散予測

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桂小五郎





桂小五郎
天保4年6月26日(1833年8月11日)~明治10年(1877年)5月26日)


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幕末の長州藩時代は命を特に狙われ続け、「新堀松輔」「広戸孝助」など10種以上の
名を使用した。
8歳~桂小五郎、33歳頃、木戸貫冶、33歳以降~木戸準一郎、36歳以降~木戸孝允に
改名。

17歳の時、吉田松陰が師範の藩校明倫館へ入学。吉田松陰に弟子入りし兵学を学ぶ。
ちなみに、小五郎は松下村塾の塾生ではない。
ペリー来航の際には、長州藩、相川警備として三浦に出動した。そこで諸外国に対する、幕府の対応を目の当りにし、失望した。
小五郎は西洋砲術、造船術、蘭学なども学び、来るべき動乱の時代に備えた。
松陰が老中・間部詮勝を暗殺を計画していることを知る。高杉晋作らと共に、
引きとめようとした小五郎は、松陰の怒りを買ってしまう。

小五郎は長州藩江戸邸大検使に昇進し、長州藩の尊攘派のリーダーへと成長していった。藩論を倒幕攘夷へ転向させるように
なり、翌年、小五郎は再上洛し潜伏ししていた。池田屋で尊攘派同志が集まる報を
受けた小五郎は一旦池田屋へ行ったが、その時は、まだ同志が集まっていなかった。
小五郎はひとまず近くの対馬藩邸へ向い談話していた、その間に幕府の新選組が
池田屋の長州藩の尊攘派を襲撃したが、談話中に外の騒ぎで異変に気付いた小五郎は
運良く難を逃れた。

この池田屋騒動で、長州藩の尊攘急進派を刺激する結果となり、禁門の変における
武力上洛を引き起こす。
しかし、包囲している間に、薩摩・土佐・会津らの軍が集結、1日で
撃退されてしまった。小五郎は会津藩兵に捕らえられたが隙を見て脱走、
その後も新選組の追撃を間一髪で振り切り、「逃げの小五郎」の異名を得る。

薩長講和のときは、坂本龍馬・中岡慎太郎からの進言により小五郎は西郷隆盛との
会談のため下関へ入った。しかし、20日余り経っても西郷は現れず、
小五郎は激怒して口実を作って京に向かう。その後、龍馬が、武器調達に苦しむ
長州藩ののために、薩摩藩名義で武器を購入するという案を出し、小五郎の面目を
立て慶応2年、小五郎は再度交渉のため京の薩摩藩邸に入る。
しかし、双方、藩の面目に拘り10日以上を無為に過ごし帰国しようとした。
そこに龍馬が現れ、引き止められ、薩摩側からの提案という形で、
ようやく交渉が始まり、1月21日、薩長同盟は成立した。
翌年の第二次征長戦にて幕府軍を退け、大政奉還を経て薩長主導による武力倒幕を
成し遂げ、新政府を樹立する。

新政府では、総裁局顧問、外国事務係、参与となり、「五箇条の御誓文」の起草に
参画し大久保利通らとともに版籍奉還の実現に尽力する。
明治4年(1871)、西郷とともに参議となると、政府要職を薩長の人材で独占、
廃藩置県を断行する。
岩倉使節団の副使として欧米に歴訪、近代国家の基礎を身につける。
帰国すると西郷首班の政府は遣韓大使派遣論一色であった。
もともと自身の征韓論と、西郷の遣韓大使派遣論と対立していたが大久保らの
工作により征韓論、遣韓大使派遣論は消滅していく。その後、大久保利通による
独裁体制の政局に不満を抱き、次第に政府中枢から遠ざかっていき長年の心労で
鬱状態になっていった。

明治10年5月26日、西南戦争の最中、病没。享年45歳。死の床で、
「西郷、大概にせんか!」と叫んだという。


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