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楼華夢幻 ~ 伸展の礎

楼華夢幻 ~ 伸展の礎

1章(1)

其れは暗く冷たい冬から一転し、比較的、ポカポカと暖かい陽気が漂い始めた三月中旬の事だった。
時に俺は13歳。少し勉強の分からなくなってきた中学2年生。
同じく凛は6歳。
相変わらず馬鹿げた夢を時たま口走る小生意気な、しかし可愛らしい少女だった。
幼稚園の年長さんな彼女は、まだ六歳のちんけな餓鬼である事には変わり無い癖に、一人で幼稚園に通っていた。
別に幼稚園がお隣だったわけではない。
はたまた其の頃の日本が特別平和過ぎてボケている様な状況だった訳でもない。
唯単純に、彼女のプライドが其れを許さなかっただけなのだ。
周りの子と同じなのは嫌だ。
というより、母と通うのがマザコンっぽく餓鬼っぽくて嫌だっただけなのだろう。
唯それだけ。
・・・六歳児がこんなに歪み曲がってしまっていて良いのだろうか?
そんな軽く歪んだ彼女は何処まで行っても特別な存在なのだった。
食事の事を敢えて挙げるのなら、6歳児なのにも関わらず、蜂の佃煮を筆頭に、その他数々の大人でも嫌がりそうな料理を平気な顔して食べたり、酒をグラス一杯分位なら一気飲みしても平気だし、其の上二日酔いはしないし。
兎に角特別だった。恰も神様に選ばれたかの様に。
そんなある日の事だった。
其れは唐突に俺を現実へと突き落とした。
俺が勝手に特別だと思い込んでいた彼女が突然風邪を引いた。
幼稚園から帰ってきた少女の顔は、いつもの様にすました顔ではなく、赤く澱んでいた。肩で息をしており、無言で玄関に倒れこんだ。・・・らしい。
之は母から聞いた話であって、俺自身は実際には学校にいたので知らない。
彼女は、健康体だった。
至って健康。
特に持病も無い。
この時期の病気といったら、花粉症とかそこら辺だろう。
其れだけに、この風邪は奇妙だった。
俺は其処で気付くべきだった。せめて疑うべきだった。
彼女が特別な存在ではないと思い込むのではなく、彼女が唯の風邪ではないのではないかという事を。

果たしてそうだった。
次の日。彼女は40.5℃という、かなり在り得てはいけない熱を出した。
其の次の日もそうだった。
苦しそうな彼女の顔を見るのは、自分にとっても辛く苦しい事だった。
渋々学校に向かった俺は、彼女が何か特別な病気に罹っているのではないかと、漸く疑いだした。
第一、医者に罹ってもどんな病気か分からないばかりか、病原菌自体が出て来なかったのだ。
其処から疑うべきだった、と今更、自身の失態に気が付き、何故か妙に不甲斐なくなってきた。
そんな自己嫌悪の念を引っ提げて学校に向かった俺は、学校の(自称)保健のスペシャリストこと康 奏に妹の病について尋ねる事にした。
「失礼します。」
コンコン、という在り来たりな音を手の関節とドアとがぶつかり奏でる。
ガララ、というこれまた在り来たりすぎる音をたて――ないでドアがスッと開く。どうやら就寝中の生徒を起こさない様に出来る限り防音加工が施されているらしい。そういえば、さっき、ドアをノックした時の音も、比較的小さかったような気がする。
俺は保健室に入室すると、湿気対策の為に開放厳禁となっている扉を即座に――しかし静かに――ピッチリ閉めた。(前に来たとき、ドアを開けっ放しにしたらこっ酷く叱られたのがトラウマになっているのだろうか。)
保健室は消毒液か何かの匂いやら、微妙なシップ臭さやら、何故かマジックの匂い(続に言うシンナーの匂いだ)までする。
正直臭いのだが、其の匂いとは裏腹に、内装は白一色と言って良いほど磨き抜かれた白が所狭しと並んでいる。
そんな白の空間の中、校庭に通じる扉の近くに、白衣を着た女性が机に向かってせっせと書類を纏めている。白い肌に薄っすらと化粧をし、何とも言えない美しさを醸し出している。胸は豊かであり、白衣の間から微妙に谷間が見える様になっている。茶色の髪と茶色の眼が白の空間の中で微妙に浮いていた。
彼女は、少し不満そうな顔をしてこっちを見た。仕事の邪魔をされて怒っているのだろうか。
だが、こっちの顔を見るなり、其の不機嫌そうな顔がぱっと明るくなる。
「火野君か。どうしたのン?又サボりに来たとかン?」
彼女こそ、我が学校の神聖なる保健統括教師、康 奏。
何故か文章が疑問系の時、語尾が『~ン?』となる。詳細は不明である。
一応顔見知り・・・レベルなのだろうか。よく保健室に来て(主にサボり目的で)いるので、そうであろうとも可笑しくは無いだろう。
「もちろん。・・・って言いたいところなんだけど・・・」
思わず言葉を濁してしまう。単刀直入に言って信じて貰えるのだろうか。どう取られても可笑しくないのに言う寸前まで其れに気付かないのが自分をバカだなと思ったりしたりする瞬間でもある。
と、そんな事は本当にどうでもよく、取り合えず唐突過ぎるが打ち明けてみた。
妹が病気だ。
よりにもよってこの時期に。
高熱が続く。
病原体は見つからない。
発症は突然。
原因はまるきり不明。
先生に診て欲しい。

それから数分後の事。
俺は学校の敷地から遥かに離れた家までの道のりを真昼間にも拘らず走っていた。
妹、基、凛の話を聞いた後に間髪入れずに先生の口から発せられた言葉は確定要素が圧倒的に少ないものだった。・・・というか無かった。
「其れ・・・うん。一寸待っててくれるン?」
と、言うと、先生は取り合えず椅子から立ち上がり、保健室の一角を陣取っている、馬鹿でかい、何やら引き出しの沢山有る戸棚の引き出しを幾つも引っ張り出している。
彼女の豊富な胸が僅かに揺れるが無視。
と、康先生は
「あ、やっぱりさっきの指示、取り消しねン?・・・貴方は今直ぐ、妹を連れて来なさい。」
有無を言わせぬ切れ味のよい声でそう言うと、僅かに引き出しを引っ張るのを止めていた手を再び目まぐるしい速度で動かし始めた。
俺はそんな先生の言葉から何か焦りの様な感覚を汲み取り、すぐさま公道へと飛び出した。
校門を出て左、バカに長く憎たらしい校舎脇の道を猛スピードで駆け抜けきり、――鳩の糞を途中二回程踏んだ気がする――其の門をさらに左へ。
再びバカに真っ直ぐなさっきの二倍は有りそうな道を、これまた休憩・ブレスト一切なしで駆け抜け――ようとして止めた。流石にこの道をブレスト無しはきついだろと自分の心に怠惰と甘えの念をチラホラ見せ、少し歩いて息を整えてから、又、走り出す。
何せ学校から家までは直線的な道が多いものの、少し早歩きでも片道三十分は掛かる地獄の道だ。
春に入ったばかりなのに一人だけ炎天下の極悪な砂漠にでも行って来たかのような汗の量。川の近くの一戸建てに着いた時には、髪から莫大な量の汗が滴り落ち、何時脱水症状を起こしても可笑しくは無い状態になっていた。
こんな格好で、少々重くなってきた幼稚園児を背負うか抱きしめるか、あわよくばお姫様抱っこで学校までの地獄の道を運ぶのは、少々気が引けたり引けなかったり。

結局シャワーも浴びずに妹を背負い、抱きしめ――序にお姫様抱っこをし――学校まで連れて来た。・・・病気の顔が走った際の振動で更に火照って可哀想だ。
吹けば消えてしまう様な、か細い呼吸をし、何処にでも有りがちなパジャマを己が汗でぐっしょりと濡らして、御凸には『冷えピッタンコシート』(春の新作らしい。この時期にこの手の物を店頭に並べるのもどうかと思うのだが)を貼っている。
汗で濡れた漆黒の髪が、異常なまでに輝いて見えた。
すぐさま、俺は保健室に最も近い玄関に靴を脱ぎ捨て、彼女を保健室に連れ込んだ。
ノックをしてからドアを開けると、廊下の空気とは何処かが違う、少し生温かい風が全身に突き刺さった。
唯、其の風は慣れてしまうと分からなくなるような物らしく、保険室内に入ってからは大して気にはならなかったが。
凛を背負って保健室に入ると、先生に言われるがままに凛を用意されていたベッドに寝かせた。
どうやら先生は、来た生徒を追い返してまで、凛を助けようとしているらしい。保険室内は、まるで外部から遮断されたかのようにカーテンも窓も締め切っていた。内部には生徒は俺以外、誰もいない。
と、自分の体が妙に暑苦しいのに気がついた。
そこで俺は、これまた用意されていた扇風機に当たった。
凛に風が行くといけないので、弱風で我慢しなくてはいけない上に、首振りを止めるストッパーが完全に壊れていて、扇風機の首の動きに合わせて自分自身も右往左往しなくてはいけないので、風に当たっていても大して変わらない様な気がしたが。
と、唐突にビリビリ、という音と共にパサッと言う、布地を無理やり破き捨てたような音が響いた。
「は?」
包帯でも巻くのに横着して鋏み使わないで包帯切ったか、とか思ったが、別に包帯を巻かなくてはいけない様な大それた怪我は無かったと思う。
ふと、真後ろに在るベッドの方を向いて、其の先の光景を確認した俺は、どんな顔をしていたのだろう。
床にはバラバラになった、見覚えの有る少し濡れた布。
間違いなく包帯ではない。
其の布は、次から次に落ちてくる。
布を投げ捨てているのは康先生。
必死になって布を捨てる先生の手の先、元は白かったのだろう、少し紅潮した肌が見え――
この瞬間、俺は全てを悟り、何も見なかったかの様に扇風機の動きに合わせて動くことを再開した。
何をしたいのだろう。先生は。・・・唯の変態さんか?
と、布が落ちるパサリ、という音が唐突に消え、
「火野。こっちへ来なさい。」
という四十五分ほど前に聞いた、有無を言わせない切れ味のよい声が、さっきよりも少し大きな振動を携えて、俺の鼓膜に響いた。

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仮名

佃煮・・・つくだに
恰も・・・あたかも
罹って・・・かかって
漸く・・・ようやく
不甲斐ない・・・ふがいない
康 奏・・・やす かなで
纏めて・・・まとめて
醸し・・・かもし
濁して・・・にごして
拘らず・・・かかわらず
一寸・・・ちょっと
門・・・かど
怠惰・・・たいだ
何時・・・いつ
火照って・・・ほてって
御凸・・・おでこ
右往左往・・・うおうさおう
鋏み・・・はさみ


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