身の立て方
****************************************************************そのような死が訪れるとは思っていなかったのにそうなってしまったかのように振舞って、実際には、自分の為にそうしようと思う話と、人の為にそうしないといけない話だったのがある。処刑されることを疑問視していた人は、罪はないのに処刑されることでどれほど人の記憶に焼きつけることが出来るかを想像した。自分の為にしたことは、人に訴えかけることで得る名誉。人間の為にしたことは、自分の死を振り返ってもらうこと。人間の為にしたことは、救いに来た男の役柄を演じた自分を人間の傲慢さが死に至らせるまでになってしまったという話。彼は無垢な人のように十字架に飛び込むことで、どれだけの同情を集められるかを想像していた。それは尊敬になる。どれだけの時を重ねても人間は自分のことを忘れない。最後の失望を覗かせることでその同情は本物になった。これはイエスが有名になることにユダヤの民が承諾をしていたこと。本当は憑依による宣教活動はあったのだが、イエスがまだ他国では有名ではないときに有名になったら、ユダヤがイエスの最後を用意してあげた話になるようにその経典は、ユダヤが持ち続けている。ユダヤがイエスに教えたことは、自分から話をすることは、そのような話が本当にあることを思わせることさえできるという生き方。メシアが来た訳ではないと云うユダヤは、延命を望んだ訳ではなく、延命してゆく人間がいる事により、イエスが成そうとしたことを振り返る時間とし、イエスの願いが伝わることを理解していた。メシアであるという話をすることで霊界の権利を主張したイエスがユダヤから貰った、どのような事実を作ってゆくかという方法。ユダヤの民だったイエスとユダヤの民を辞めなかったユダヤ、どんな話にしてゆく打ち合わせが有ったかわからない。しかし、他民族に相談することなくそうしてしまった。これが打ち合わせもなく暗黙の了解だったとしたら、どれほど、知恵のある民族と勇者だったのだろうか。**************************************************************50点