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何となく感じていること

2016年05月09日
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私のようなパンの耳にもならないような硬い頭でも
漠然としたままでは終わりにできない。

意図されたものは、受け手にとって幸福になるものでないと、
計画を立てた者だけが得る満足として終わるだけでその話を
聞いた者の報いは得られない。

ここで、メシアが存在している為、宗教化しているキリスト教と、
自分を始めなければ、苦しみはない主旨が支持された仏教を比較しよう。

キリスト教の最大の特徴は、イエスという性格が法として機能している点。
この場合、イエスという存在なくして、人生の挽回が果たせない事を指す。
もし、キリスト教徒が死後の世界でイエスを見つけることができなければ、
信念を続けてきた宛先を見失うものであり、信念を抱かせようとする宗教
でもあるキリスト教は、信念の働きが成果を待つ性格のものであることを
理解し、一度は挨拶を聞いてあげないといけないものであることを義務化
するものである。

ただし、これでは、教徒になった幸福感の保証というものが、信じた者の
気持ちによって持ち続けられるものでないことを示している。

これに対し、仏教のほうは、自分さえ思いが無ければ、その思いを味わう
ことはない、という教えであるので、思いがない事を幸いとし、それ以外、
必要なことは、必要だと思うことから思いがまとわり始める、という風に
言い回しが楽しくなるほど、目的が変わってしまわないことだと思います。

話は逸れましたが、仏教は、幸福感の達成が誰かに会う事を必要として
いる訳ではなく、誰に会っても会わなくても不愉快にならない自分に
してゆこうというものに感じるので、条件によって幸福感が変わる事は
起きようも無いものであるという前提であることが最大の利点でしょう。

このように比較すると、仏教徒でいるほうが、幸福を味わおうとする自分
さえいれば、幸福が続くというものであり、誰かの機嫌を損ねていけない
という強迫観念も仏教の在り方自体が求めないものなので自由ではあります。

今日も、私はパンを食べて生きます。
今日も、私はパンを食べるときにパンが無いときは、
別の家からでもパンを奪い取って生きていただろう、と想像しながら。
人間というものは、生きるために数が足りなくなるかもしれないパンを
平気で食べているのだから、人に与えなくても自分だけは食べてしまうことを。
食べるものがない時は、食べようとしなかった人の体さえ食べて生きることを。






最終更新日  2016年05月10日 03時15分20秒


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