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今日、何読んだ?

2020.09.19
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カテゴリ:仏教
法蔵魂を呼び覚まされて 宮岳文隆

 本書は阿弥陀様になられた法蔵菩薩の方からの論書である。
 法蔵菩薩は既に阿弥陀様になられた方だから法蔵菩薩云々かんぬんという議論はおかしいのではないかと私などは思ってしまう。
 しかしまあそう言わず本書を読んでみようじゃないか、と言う気持ちで読むのがよろしいかと思う。
 そうです。知って、それを改めていくということは考えなくていいのです。
 改めようとしても、改めることなどできないのです。
 それは、山を動かそうとしても、動かすことなどできないのと同じです。
 どこまでも、知ればいいのです。
 私どもは、そういう自分を知らないのです。
 知らないから、苦し紛れにいろいろなことをやるのです。
 知れば、「ああそうなのか!」と、ある意味でその魔性から自由になれるのです。
 知らないと、その魔性に取り込まれていくのです。
 ただし、知るといっても自分が知るのではなくて、知らされるのです。
 そういう自分に光を当ててくださっているのが如来です。
 法蔵菩薩です。
 ​などまず絶望を知れということでしょうなあ。
 その絶望はうんともすんとも言わないもので、仏教的に苦というものでしょう。
 この絶望を知るということはつまり私の方ではなくて仏の方から知らされるものなのだということを著者は言っているのでしょうねえ。
 次、
 それは、今までの私にはとうてい踏み出し得ない道です。
 今までの私は、「何とかして死を免れたい、水火二河を免れたい、助かりたい」と思っているのですから。
 そういう私に対して、法蔵菩薩が、私より先に落ちて、「私がここに居るから安心して落ちて来い、安心して死んで来い。助からなくてもよいのだ。助からない所に私は居るのだから」と呼びかけて、怯えている私を待っていてくださるのです。
 その呼び声が私の胸に届いた時、始めて私も、その道なき道に一歩足を踏み出すことが出来るのです。
 それが、曽我先生が、「如来我となりて、我を救い給う」と表現してくださった道です。 
 すなわち、法蔵菩薩が、助からない私と一つになって、私を待っていてくださる道です。
​だそうで、つまりどうしようもない動かせない絶望の最たるものが死というもの、その死に対し法蔵菩薩が待っていてくださるという教えが書いてあるわけです。
 これはとても重い内容だ。
 南無阿弥陀仏は仏の方から私に語りかけてくるもの、極端に言うと死の絶望の淵から語りかけてくるものなのである。
 そうですよね法蔵菩薩が南無阿弥陀仏と語りかけてくださるその場所は正に死の淵ということではないのか。
 仏教は死を抜きにしては語られない重い教えなのだということだ。
 その死の淵に法蔵様が阿弥陀様がいらっしゃって迎えとってくださるというありがたい教えが仏教だということ。
 葬式仏教と揶揄してきたが、実は葬式仏教こそが仏教の深淵を語っているのかもしれない。







最終更新日  2020.09.19 05:00:07
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