2024/03/04(月)15:13
回向された「教行信証」
回向された「教行信証」 徳岡秀雄
阿弥陀仏は音声である。 阿弥陀仏は音声になられたのです。
だから、「南無阿弥陀仏」は、悟りの世界から響いてきた音声です。
しかも、四十八願のすべてが法則として樹立されています。
第十七願は、諸仏から誉め讃えられるような「名号」になること、そのことを誓ったのでした。
このことはずーっと前から真宗の本に書いてあったんだろうがそのことに気付いたのはつい最近のことだ。 南無阿弥陀仏はまるで魔法の言葉で、おまじないのように称えておればなにかいいことありそうな、というそれくらいのレベルでしか私は理解していなかったのだ。 しかしそれは違う。 私達は南無阿弥陀仏によって救済されたら今度は還相回向する。 それはそれはとても忙しいことらしい。 阿弥陀仏と往生者たちは、「安らかに眠っている」のではありません。
「有縁を度してしばらくも/休息することなかりけり」(五五九)と、休むことなくダイナミックに浄化・救済活動に励んでいるのです。
というように。 本書によれば往相回向も還相回向も瞬時なのだそうだ。 その結果休むことなく我々もまた浄化・救済活動を為すことになる。 そのメカニズムは、 永遠の別れに嘆き悲しんだ「あの人」も、すでに阿弥陀仏と一心同体となって、阿弥陀仏と同じく、名号として私を調育し、迎え取ろうと呼 (喚) びかけ続けてくださっています。
私は阿弥陀仏と「あの人」との還相回向のお陰で、往生できるはずです。
往生できたら、その浄土では、浄化されてみずから磁石と化した「あの人」が、私を瞬時に磁石化してくださいます。
浄土で磁石化されて成仏できた私は、阿弥陀仏と一心同体となって、今度は還相回向に加わり、惜別した有縁の人たちを迎え取るはたらき(往相回向)に、やがては参加できるはずです。
というもの。 つまりこの話に我々は救われるのだ。 私はこの教えまでなかなか到達できなかった。 一度読んでは休み、また読んではまた休み、などなどそうそうこの阿弥陀様の究極の論理に行きつけなかったのだ。 うむなるほど、上記のような事なれば、法然上人が親鸞聖人に、あの世で待っている、あの世でまた会おうぞ、と言った真意がわかる。 ポイントは瞬時なのである。 阿弥陀様は音声である。 我々は救われて終わりではない。 その後瞬時に還相回向してしまうのだ。