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今日、何読んだ?

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仏教

2021.05.04
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カテゴリ:仏教
不思議な人形アーナンダの教え 河原利彦

 アーナンダとは漢字で阿難と書く​、世尊の10大弟子の一人だ。
 その人形がアーナンダ人形で、インドを旅する女性が700円で手にし、日本の友達に譲る。
 その友達方は夫と一男一女の4人家族だ。
 その娘が中3で、部活やsnsに溺れ、受験勉強をおろそかにしてしまう。
 そこにアーナンダ人形が、ボソリと次から次へとアドバイスをするという話。
 そして朝ドラのようにうまくはいかないが、金言をこのアーナンダ様は語るわけだ。
 いわく、受験は運だとか、過去問など勉強するなとか、スマホや部活に言い訳するなとか、朝勉の勧めなどなど。
 的確なアドバイスを得た娘は徐々に成績を上げ、志望校に手が届くくらいのレベルに上がって、受験日を迎える。
 だが…。
 朝ドラのようにうまくはいかなかった。
 実は本書はそこからが味噌なのだ。
 その後彼女は滑り止めの高校に入学しトップレベルを維持していく。
 勉強家に見事変わったわけですな。
 ところで、先述の、受験は運、という意味だが、普通に考えれば、運が良ければ成績の悪いやつもいい学校に入れるし、運が悪けりゃ成績が良くてもいい学校に入れない、と一般的に考えるわけだが、アーナンダの真意はそうではなく、
 未来に不安をもち思い悩んでいるうちは、いくら勉強しても実が入らないし、本来の力を出すことはできない。
 結果は運に委ね、いまを精一杯に生きる。
 道はそこからしか開けない。
というものだったのだ。
 ここが一番大事なところだ。
 ここが理解できてはじめて仏教的受験論になるのである。
 






最終更新日  2021.05.04 05:00:07
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2021.05.03
カテゴリ:仏教

【POD】太極円通図から理解する般若心経と理趣経:究極の健康への道標 [ 田中実 ]

 私はこの本を一気に読んでしまいましたな。
 目で読むというより心で読んだ感が強い。
 それはともかく、毎日唱えている般若心経には、般若心経奉賛文、というものがあるらしい。
Ⅰ、般若心経奉讃文
 そもそも般若心経と申す御経は、文字の数わずか二百六十余文字なれど、天台経七十巻、毘沙門経六十巻、阿含経、華厳経、方等、般若、法華経等、一切の経より選び出だされたる御経なれば、神前にては宝の御経、仏前にては花の御経、まして家の為人の為には祈祷の御経なれば、声高々と読み上ぐれば、上は梵天帝釈四大天王、日本国中大小神祇、諸天善神、諸大眷属に至る迄、哀愍納受して我等の所願を成就せしめ給うべし。(謹んで読誦し奉る)
​ というものだ。
 これを般若心経を唱える前に唱えなさいと言う。
 著者によれば、人は、霊、心、体によって構成されているのだが、霊であることを忘れ去っているのだそうで、これがいけないことなのだと言う。
 そんなことでこれらのバランスが悪ければ、病にもかかる。
 例えば、湿疹や皮膚炎。赤く腫れたり、じゅくじゅくしたり、痒くて掻きたくなりますが、これは湿・熱が原因で、湿が多いと「湿」疹、熱が多いと皮膚「炎」です。
 飲食の偏りによる湿・熱の過剰や精神的要因による内熱によって体内に湿・熱が溜まり、氣血が円通できなくなるのでそれを皮膚から排泄する姿なのです。
 病変部は、目視できませんが、湿と熱を皮膚表面から蒸発・発散させているのです。
 それを助けるために掻きたくなって掻くのです。
 つまり、発赤や腫脹・痒みを掻くといった症状は、湿・熱の滞りという病に対する適応反応であり体がバランスをとるための療法だということです。
​ ということで皮膚病は治るのだそうだ。
 まあそれにしても世の中にはいろいろな宗教論があるものだな。
 本書はその中でも実によく現世利益を追及したものと言えましょうな。
 自分が夢幻ではあるが、その夢幻の中でも少しはましに生きたい、というのが偽らざる心境だ。
 それゆえ、本書のような本を読むんでしょうねえ。






最終更新日  2021.05.03 05:00:07
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2021.04.28
カテゴリ:仏教
こころの安らぎ〜私には釈尊の教えだけで十分だ 河村公昭

 春眠暁を覚えず、思い通りにならないのは何も運命だけでなく、起きがけの体もそうだということに気づいた。
 春分の日の頃朝外が明るくなり自然に目が覚めるのだが、体が言うことをきかない。
 まさに思い通りにならない。
 それこそが苦だ。
 そうなると私達は何一つ私というものがないということだ。
 そもそも私だと思っているこの肉体は、一体どこからが私なのだろうか。
 心臓は自然に動き、呼吸も自然にしており、自分の意志で生まれてきたものではない存在、それが私ではないか。
 唯一私だと思っているこの心も私だという証左はどこにもない。
 私だと思っている脳の残像だ。
 さてここまでの私のぐちめいた話に対し著者は、
 私たちは日常生活や社会経験として「私・自己」という存在を自明のこととして生きています。
 「私がいて、私が生きている」と、それが当然のこととして、これが他と関係なく独存している「私」と思い込んでおり、この思い込みの根拠となっているのが「自我」なのです。
 しかし釈尊は、『縁起の理法』によって、生きとし生きるものはすべて、さまざまな因縁によって「生かされている私」として存在しているという真実から、「私」を成り立たしている自我の根拠はないと説かれています。
​というわけだ。
 つまりだ、私のぐちこそ世尊がおっしゃる真実だということだ。
 どこにも私はいないということ、つまり苦を感じる主体がないということになる。
 さあ、そこから私はどのように進めばいいのか。
 それについて龍樹菩薩が
 ナーガールジュナは、「有」と「無」を含む、さらに上の抽象度の概念「空」を説きました。
 「有」であれ「無」であれ、世の中のあらゆる存在と現象を包摂する上位概念として「空」を考えたのです。》
​として、空、を考えだしたというのだ。
 私達は実にこの空の中で生きている。
 有も無も混在するのが空という概念だ。
 私というのは空そのものだということだ。






最終更新日  2021.04.28 05:00:07
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2021.04.09
カテゴリ:仏教
お念仏歳時記 廣澤憲隆


阿弥陀さまは人生舞台のセーフティネットです 新潟越後のお念仏歳時記 [ 廣澤憲隆 ]

 本書は真宗の歳時記である。
 淡々と歳時記が進んでいくと思いきや​
 漠然と生まれ、漠然と死に、あとは骨に成る。
 「成仏ならぬ成骨」、かけがえのない人生が骨という物質に帰する。
 そのわくの中でしか頭が働かなくなったのが現代の淋しさです。
 私は、いのち・たましい・精神、こころで生きてきました。
 それに形を与えたのが肉体です。
 すなわちこの世の誕生でした。
 その尊い人生を尽くして、仏さまの世界、お浄土に生まれて仏に成り、衆生を救う仏の活動の展開が始まります。
など随所に仏の教えが散りばめてある良書である。
 否、歳時記の名の仏教書で、​
 執行猶予中のあきらめの日暮らしが今日の老後の生活ではないでしょうか。
 未来は闇、お骨になるだけ。
 知識は豊かになったが、闇を突破しようとする意欲、本能の退化したのが現代です。
 未来の闇を超えて光りを求め、光の世界、浄土に生まれて永遠のいのち、無量の寿を得ようとする本能意欲、その欲望が宗教心、念仏の信心というものです。
など今の私が教えられたことが多々あった。
 問題は、後生があるかどうか。
 この問題について世尊は、無記、なのだが、​
  「後生の一大事」とは明日の生活が明るいか、暗いかの問いかけです。
 明日が真っ暗であれば不安、絶望、あきらめであり、明日の明るさは私の生きる力と希望の原動力となる。
 苦悩のこの世を生きぬく力を求めて、一途に明日の光を求める人々、求道者を「後生願い」と門徒の間で尊称してきました。
 未来の光こそが現在の私を救う、これが浄土真宗の教えの骨格です。
というように真宗は後生があるから頑張れるという教えなのだなと、本書を読んでつくづく思った。
 私の今の所の理解では、後生を願って臨終を迎えることができることが幸せなことなのだということ。
 その先のことはわからない。
 後生を願いつつ意識がなくなるのならその意識がそのまま永遠に続くことになるのではないのか、なんて自分勝手な理解をしているけれど、とにかく修行が不足しているんだろうねえ、やっと自分の思い通りにならないことが苦であることがわかってきて、その苦のすり替えが重要なのだということがわかってきたところだ。
 永遠のものはない、否、永遠に流転し続ける。






最終更新日  2021.04.09 05:00:06
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2021.04.06
カテゴリ:仏教

池上彰と考える、仏教って何ですか?【電子書籍】[ 池上彰 ]

 世の中にはたくさんのインテリがおり、その中でも極めて優秀な人がテレビに出て様々な意見やら解説をしているわけだ。
 その一人が著者だ。
 彼がテレビに出ていない日はないと言ってもよいのではないか。
 そのような中で、私がそういうコメンテーターやら解説者をいかにして信ずるかという一つの目安に仏教についていかに書いているかというのがある。
 本書は、何気なくkindleunlimitedで仏教書を探していたら、見つけたものだ。
 さて池上さん、仏教についてどう書いているか、気になりましたな。
 実は私はそういう仏教について書いた本を読んでがっかりして、以後その方の本を1冊も読まなくなったということがある。
 池上さんも調子に乗ってそんなことじゃないか、なんて思いつつベージを繰ったら、なんと池上さんの仏教に対する知識と思い入れは本物で、先述した方とは全く趣を異にし、私の心は感動のるつぼになった。
 まさに本書は仏教の入門書、仏教初心者にうってつけの良書だ。
 何しろ著者がきちんと自分が日蓮宗徒といい、仏教のツボを心得ているものだから、論陣が快い。
 私はこの記事を書いていてふと気づいたのだが、なるほど池上さん、日蓮宗といえば池上本門寺、そういうことかとここでも腑に落ちてしまった。
 それはともかく仏教とは、
 私たちは自分のことさえよくわかっていませんし、制御することもできません。
 私のものが、いつまでも私のものであると期待をしていると、いつかは裏切られてしまうでしょう。
 そこに苦しみが生じます。
 すべての物は不確かで変化するものだから、私という実体も存在しない。
 そう理解することで、他人と比べたり執着したりするなどの様々な苦を遠ざけることができる。
 それが諸法無我の考え方です。
 諸行無常と諸法無我。
 私たちはなんとなくは知っているはずですが、一〇〇パーセント割り切ることはできないというのが正直なところでしょう。
 「諸行無常」「諸法無我」なのだから、人生はそもそも思い通りにならないのが当たり前なのだ。
 そうブッダは説きます。
 なのに思い通りになるだろうと期待するから、思い通りにしようと躍起になるから、そこに苦しみが生まれるのです。

 という教えであると著者は正確に理解している。
 恐るべし、池上彰!なのである。






最終更新日  2021.04.06 05:00:07
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2021.04.05
カテゴリ:仏教
理趣経曼荼羅 土宜法龍

 般若理趣経は、その解釈を誤ると邪教立川流のような宗派になるおそれがあると言われている。
 次に、般若理趣経百字の偈の訳文を載せる。
 何を以ての故に。
 菩薩勝慧の者は、乃し生死を盡すに至るまで、恒に衆生の利を作して而も涅槃に趣かず。 
 般若及び方便の智度をもて、悉く諸法及び諸有を加持して一切皆清浄ならしむ。
 欲等をもつて世間を調して浄除を得しむるが故に、有頂及び惡趣を調伏して諸有を盡す。 
 蓮體の本染にして垢の為に染せられざるが如く、諸欲の性も亦然なり。
 不染にして群生を利す。
 大欲をもて清浄を得せしめ、大安楽富饒ならしめ、三界において自在を得しめ、能く堅固の利を作す。
 なぜそのようになるのか。
 菩薩の智慧に勝れたものは、生死を転生を尽くすまで、常に衆生の利益のための行ないをして涅槃に赴くことがない。
 智慧と方便の手段によって、すべての法と営みを加持してすべてを清浄なものとする。
 欲望などによって世の中を調整して、浄化を可能としているために、忘我と悪道とを調伏して営みを尽くす。
 蓮華の身体が泥のために染まらないように、諸々の欲望の性もまた同様である。
 汚れに染まることなく、人々に利益を与える。
 大いなる欲望によって清浄を手にさせ、大いなる安楽と豊穣を得させ、三界において自在の境地を得させ、救済の根本を堅固なものとする。
​ というものである。
  この中で、如蓮体本染不為垢所染、の訳文が、蓮華の身体が泥のために染まらないように諸々の欲望の性もまた同様である、となっているところ、その解釈は様々なのであるけれど、他の仏教宗派と違い、少なくとも人間の欲望をも生命の息吹と考えるあたりが真言密教の醍醐味と言えよう。






最終更新日  2021.04.05 05:00:07
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2021.03.31
カテゴリ:仏教

3日間で驚くほど心が晴れる本悩みや迷いが消える「聞思修」の教え【電子書籍】[ 名取芳彦 ]

 たまにいい本を読まないと人間はだめになりますね。
 人間は自分勝手だ。
 つまりご都合主義だ。
 自己保身に躍起になる。
 その結果自分の思い通りにならない事に振り回される。
 まず〝自分のご都合〟に気づくことです。
 「これは自分のご都合なのではないか」と問うことです。
 おそらく、みなさんも私と同様、嫌だと思うこと、ちぇっと舌打ちすることが毎日、何回もあるでしょう。
 その時に、自問してみるのです。「ひょっとして、これって私のワガママが原因かな?」と。
 このことはご都合が苦であるということでしょうねえ。
 自分の思い通りにならないことが起きるとなんで自分だけがという想いに駆られてしまう。
 その結果人を妬み嫉み恨む。
 いやあなんという悪い言葉のオンパレードだ。
 妬み嫉み恨みの原因はなんとご都合だった。
 こういう仏教の基本のきの字もっわからずしてよく僧侶になりたいなどと思っていたものだ私は。
 次の言葉は新義真言宗の宗祖覚鑁上人のものだ。
 夢裏の有無は 有無同じく無なり。 (夢の中で、有ったり無かったりしているものは、いずれにしろ無いのと同じです。だって夢なのですから)
 迷中の是非は 是非に非なり。 (迷っている間に出した是非は、是非ともにあてになりません)
 夢裏(夢の中)も迷中も、ここでは迷いの中という意味です。
 すべてが変化していく諸行無常の理、すべては縁の集合体として仮の存在だという空の原則、因に縁が加わって結果になるという因果の法則などに気づかないことを、夢裏と迷中にたとえています。
 私たちが生きていく上でとても参考になるのは、後半の「迷中の是非は 是非に非なり」です。
 ようするに(本書では、要するになどという言葉で簡単にまとめるなという説教もありますが…)今の私つまり迷いそのものの私の見ていることしていることなどないのだ、ということですよね。
 私は今イモ天(イオンモール天童)のフードコートでイオンのWi-Fiにのってこのブログを書き上げているところだ。
 それすらつまりないものなのだね。
 ないものをあるあると騒ぐものだからことは大変になる。
 しかしそれにしてもやっとここまできたんだね。






最終更新日  2021.03.31 05:00:07
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2021.03.22
カテゴリ:仏教

 同時代に生きた祖師、道元禅師と親鸞聖人。
 そのどちらも稀有な宗教家だ。
 そして現在の日本にも厳然とそびえ立つ巨人だ。
 まず道元禅師、
 ところが道元は、悉有は仏性である、つまり、あらゆる存在は仏性そのものである、だから行とは、その仏性を顕現させる行為だ、と読み直しました。

​というように悉有仏性の考えは読み直しからきているということなんですな。
 これに対する親鸞聖人の考え。
 それに対して親鸞は、私は仏性ゼロの存在に過ぎない。
 勿論、成仏の可能性などあるはずがない。
 にもかかわらず、私は阿弥陀仏から回向された仏性の故に、必ず成仏できる。
 しかも、「仏性は回向されたものだ」との「信心」すらもが、阿弥陀仏から回向される(信心=仏性)のだ、とする徹底的な他力観を主張しました。
​ として、その仏性は仏の方から授かったものとする。
 この微妙な距離感が、坐禅の道と念仏の道とに分かれたということだろう。
 この2人を勉強することはすなわち仏教を勉強することにほかならない。
 精進したいものだ。






最終更新日  2021.03.22 05:00:06
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2021.03.18
カテゴリ:仏教
生死の問題 富士川游

 本書を読めばなんとなく仏教のことがわかったような気になるのだが、読了後は不安に駆られる。
 とにかく本書に再三再四出てくる言葉は、業(カルマ)だ。
 私達は身体の死とともに意識がなくなる。
 ところが業(カルマ)はなくならず、消失した五蘊をまた取りまとめてまた新たな自我を作り出すという論だ。
 さてそんなこと今までの仏教書で読んだことがあったろうか。
 たしかに仏教では霊魂を否定するし、キリスト教のような創造神も否定する。
 しかしだからと言って、本書のようにカルマがまた五蘊を取りまとめるなどという考えがあったろうか。 
 その結果、著者は現在過去未来の存在を認め、カルマは過去から現在現在から未来へ向かうのだと言う。  
 それはでは仏教の教えから外れてしまうのではないのか。
 そうだとすれば自分は何度も生まれ変わっていることになる。
 つまり輪廻だ。
 そうすると、せっかく来世の展望が見えたら、それが輪廻であるとなり、輪廻を否定するための教えである仏教とは一体何なのだとなってしまう。
 それにしても不思議な書でしたな。
 そもそも読んでいる最中は実に腑に落ちたのだ。
 それが読了後不安に変わってしまった。
 要するに私の読み込み不足なのだ。
 それはともかく本書が良質な仏教書であることは間違いないと直感的に思った私だった。
 もう一度読み返したいものだ。






最終更新日  2021.03.18 06:14:47
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2021.03.02
カテゴリ:仏教

僧侶が語る死の正体 死と向き合い、不死の門を開く、五つの法話 [ ムホウ・ネルケ ]

 正直申し上げてこの本は本当にいい本ですなあ。
 外国の方が3人、日本の方が2人。
 どの僧侶も本当にいい話をしておられる。
 本当に感心しました。
 南直哉さんは、恐山の僧侶でもあられる。
 イタコさんとのからみで、本当にいい話を書いておられた。
 死者とは何かということですねえ、そう、生死を明らめるは、仏家の一大事、生と死はコインの裏表、などなど、様々な抽象的概念が並びますが、まず何より死とは生者である我々の側から考えなければならないことであり、そうすると、イタコさんに死後の消息を聴くということは、生者にとって本当に大事なことになるところ、大切な人をなくした方がイタコさんの口寄せを聴いて納得なさった、というようなエピソードを読み、同じようなことが私の周囲に2組あったことを思い出して、死というものがなにかもわからないし、自分というものがなにかもわからないものの、死者とは自分から見たものであり、その意味がわかったことで生者であるこちら側の人々が納得してホッとするということが1つ大きな大事なことなんだなと思うのだ。
 死というものを考えた場合、必ず出てくるのが、私とは何か、という問題だ。
 このことについて本書では、次のように説明する。
 「私が死んだらどうなるのか」という質問に対して、お釈迦様は、まず「私」を発見しなくてはいけないよと教えています。
 そして答えも出しています。
 「私は、いませんよ。それは幻覚にすぎません。調べてごらんなさい」と。
 そこで、我々は瞑想修行をして調べてみるのです。
 調べてみると、「あ、なるほど。これが幻覚か」と、すぐわかります。
 瞑想して「私というのは幻覚だ」とわかるためには、「私」という実感が生まれる瞬間をチェックする必要があります。
 身体を観察していて、どこかが痛くなったら、「痛い」と思った瞬間に「私」が生まれています。
 「ちょっと寒いな」と思った瞬間に、「私」が入っています。
 瞑想では「寒気」とサティ(気づき)を入れるのですが、「寒気といっても、私が寒いと思ってしまったんじゃない?」というところを観るのです。
 「この寒さの感覚に『私』と言ってしまったのだ」と。
 でも、「『寒さが私』というわけではない」と知ります。
 あるいは瞑想中に「痛み」を感じたときに「あれ? ちょっと待って。今、私は痛みを、私と同一化したんじゃない?」と気づく。
 でも、「痛みが私」ではありません。
 そういうふうにチェックしていくのです。このプログラムは、たくさんの経典で繰り返し説かれています。
 「私」という錯覚が消えたら、死んだらどうなるのか、という疑問が成り立ちません。
 生と死は宇宙法則ですから、「壊れたら何か現れる。壊れたら何か現れる……」ということになるのです。
 そこに「私」はいません。
​​ 長い引用となったが、この引用の中に私とはなにかの解答が書かれているように思う。






最終更新日  2021.03.02 05:00:08
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