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今日、何読んだ?

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文学

2021.01.04
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カテゴリ:文学

 このミステリーがひどい!と標榜しながら著者ほどミステリーを愛しているひとはいないのではないのか。
 そもそも凄い読み込みと記憶力だ。
 たしかに著者が本書に書いたミステリーについて私はおそらく7割は読んでいると思う。
 ところが私と違い、著者はそのミステリーのトリックやらストーリーを覚えているんだよねえ。
 凄い!
 あたしゃあ、ほぼほぼあらすじなど忘れているよお!
 それなのに著者はほぼほぼそのストーリーもトリックも覚えていらっしゃる。
 ああ、なんという差だ。
 そう著者は東大、私はN大。
 著者は、N大ってどこだ、なんて本書で書いているよ。
 わかっているくせにね。
 ともかく、ミステリーの本質を的確に言い当てていることは確かだ。
 あの、どさどさどさどさと覚えられないくらいたくさんの登場人物が出てきたり、それが複雑な一族であったり、死体があった部屋の間取り図が出てきたり、入り組んだ建物の図とかがあって、どたどたがさがさ、ああでもないこうでもないと思わせぶりをしたあげくに、「え? 誰それ」というような人物が犯人であったといったオチがつく、あのミステリー。
 語り手が犯人であった、というオチが、「意外な犯人」という文庫版の扉にある紹介文から分かってしまうという、あのミステリー。
 ミステリーには、さまざまな恨みがある。
 とかね。
 でもそうは言いながら、著者はミステリーを楽しんでいるし、本書を読めばミステリーは立派な文学だし、ミステリーの入っている純文学なんていっぱいあることがわかったし、だから、ミステリーを抜きにして文学は語れないのだ。
 本当に凄い本ですよ、この本は。
 ところで、様々なミステリーに対する考察がなされ、その中で松本清張の砂の器についての考察もなされていた。
 いわく、
 多くの人は、野村の映画のイメージでこの作品を記憶していた。
 数年前に、実はこの原作がかなりトンデモである、という話題が出た。
 実際、この犯人は第二の殺人を犯しているのだが、それが、電波を使って殺すという意味不明なもので、映画化に際しては完全に削られている。
 これは「読売新聞」に連載されたもので、連載小説はしばしば不要に長くなる。
 それに映画では、回想シーンで、加藤嘉のハンセン病の父と、幼い和賀英良が放浪する場面のインパクトが強く、それが和賀の自作自演の交響曲と重なって、じーんとくる効果を与えていたのである。
 1961年といえば、まだ科学の無限の進歩が信じられていて、「電波で人を殺す」なんていうのも、近未来に普通に実現するだろうと思われていたのだろう。
 実際、怪獣映画やアニメで「レーザー光線」とか「光線銃」というのが使われるが、今にいたるまでそんな兵器は実用化されていない(開発中らしい)。
​というように明らかに野村芳太郎監督の映画が私達国民にとっての砂の器だということが書かれている。
 そのとおりなのだ。
 私はこのところ小説づいており、もう、立花隆のいう小説不要論には与しない。
 そしていま比較していることは、映画か原作かということだ。
 私の今までの感覚では、原作の圧倒的勝利!
 まるでここ15年のセ・リーグとパ・リーグのような感じで…。
 ところが、この砂の器に関してだけは、映画の圧倒的勝利なのである。
 この点は、著者に同調である。






最終更新日  2021.01.04 06:21:41
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2020.06.08
カテゴリ:文学

不良老人の文学論 [ 筒井 康隆 ]

 その昔、大学を選ぶ段になって、文学部に行きたい旨を父に話したら、文学で飯が食えるのか、と言われて断念した。
 あの時頑張って文学部に行っていたらどんなことになっていたんだろうなと、ふと思うことがある。
 文学で飯が食えるか、という問は今も昔も同じだろう。
 今のほうが、文学そのものが見えにくくなっているのかもしれない。
 文学で飯が食えるかと父から言われた時、私が考えていた将来の設計図は国語の教員になることだったので、実は、飯が食える、と答えても良かったのだが、法学部とどっちがいいか、なんてことでも悩んでいた時期なので、父に議論は挑まなかったのだった。
 結局、法学部に進学し、司法の周辺をさまよって、無事定年退職に至ったのだが、そもそも文学とはなんぞやなんて思って、退職後その手の本を読んだが、全く理解不能で歯が立たなかった。
 本書もきっと難しいんだろうなあなんて思っていたら、豈はからんや、まず、私が尊敬してやまない、井上ひさし(以下敬称略)について、
 彼は健康に気を配っていた。
 文学賞の選考会のあと、彼は手配されているハイヤーをことわり、地下道を歩いて東京駅に向かうのだった。
 鎌倉駅から自宅までも歩いて帰っていて、その姿を鎌倉に住んでいた息子が何度も見かけている。
 あんなに健康に留意していたのになんで、と思う。
​などという文章を寄せている。
 さらに
 この時代の作品の今野敏と現在の文壇における今野敏、さらにはつい最近我が家へ対談にやってきた今野敏という三人の今野敏がおれの中に存在している。
 自分の作品世界を確立しようとして懸命だった頃のナイーブな彼は、もはや各ジャンルに及ぶ何十ものシリーズを持ち、月に一冊とか二冊とかの割合で超人的な量産をする流行作家となり、日本推理作家協会の代表理事となり、それでいて大物面をすることもなく我が家へやってきて真面目で律儀な顔を見せるのである。
​というような、有名な作家のことを語り、そして、書評を書く。
 だから、著者のいう文学論というのは書評ということになるのだ。
 何だ、文学とは書評のことか、なんて思ったりして。
 でも、巧妙洒脱な文章を書き上げる著者始め、著者が選んだ各文学作品の著者たちは、文学で飯を食っているということが本当にはっきりわかった。
 つまり、今更ながら、文学とは、飯を食うためのものだった、ことがわかったのである。






最終更新日  2020.06.08 05:00:07
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2019.05.01
カテゴリ:文学
​​​探偵小説と叙述トリック 笠井潔

 日本の探偵小説史上には第三の波というのが存在するのだそうだ。
 その第三の波について
 歴史的使命を終えて第三の波が消滅するのなら,それはそれで仕方のないことだ。
 いかなるムーヴメントも永続するわけがないのだから。
 しかし生活習慣病を放置し続け動脈硬化でジャンルが突然死するという最悪の結果は阻止されなければならない。

と著者が述べていることはつまりその第三の波が動脈硬化しつつあるということを言っているのだろうか。
 どうしても第三の波や新本格と呼ばれる世代と叙述トリックはつながるようで
 叙述トリックとは物理的なトリックとは異なり,作者が読者に仕掛けた読者の認識の錯誤を利用したトリックである。
 それが効果的に機能するとそれまで安心して読んでいた物語世界の前提自体がぐらつき,大げさに言えば読者の世界認識が大きく揺さぶられ,反転する。
 十角館の殺人,に限らないが,新本格以降のミステリには叙述トリックを用いた作品が多い。
 そのことに注目した場合,新本格を謎と論理の本格探偵小説の復興運動と理解するのは一面的であるように思える。
​​​と著者はいう。
 叙述トリックについてアンフェアと述べたのはヴァン・ダインであるが、私はこの叙述トリックが好きで、というのはその騙された感が半端でないのが魅力なのであり、したがって、叙述トリック云々なんて騒ぐのはどうも好きになれない。
 ただ叙述トリックを読了すると結局その本はもう二度と読まなくてもいいやとなるのは否めない。
 でもOKですよ、いろいろな叙述トリック作品が著者や我孫子武丸によって明らかにされているけれども葉桜の季節に気味を思うことなんて週美ですよ、叙述トリック上最高作品です。






最終更新日  2019.05.01 05:00:10
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2019.04.30
カテゴリ:文学
​​​
本格ミステリ鑑賞術 (Key library) [ 福井健太 ]

 ミステリ史上何度も顔を出す作品が、アクロイド殺人事件、だ。
 フェアかアンフェアかの議論、犯人が語り手である手法など今日的なテーマがすでに約90年前に提起されているが、
 フェアとアンフェアをめぐる議論においてアガサ・クリスティ「アクロイド殺害事件」(1926年)が重要なテキストであることは論をまたない。
 エルキュール・ポアロシリーズの第3長編として上梓された本作は語り手を犯人にしたことで大きな議論を呼んだがクリスティは同様の仕掛けを「茶色の服の男」(1924年)にも用いていた。
 エドガー・アラン・ポー「お前が犯人だ」(1844年)サミュエル・アウグスト・ドゥーゼ「スミルノ博士の日記」(1917年)などの先例もあり必ずしも新規な技法ではなかったはずだ。
 ヴァン・ダインが「アクロイド殺害事件」をアンフェアと断じ,ジュリアン・シモンズが探偵小説十戒に反すると述べ,ドロシー・ L・ セイヤーズが擁護絶賛した経緯は当時の本格ミステリ界の偏狭さとそれを脱する価値観が生じつつあった状況を示している。

と著者がいうようになにも新規な手法ではなかったけれども新たなミステリ界の動きになった大きな作品であったことに間違いなさそうである。
 さて近日ミステリ評論の世界でテーマとしてよく語られているのが、叙述トリック、だ。
 基本的な認識としてはテキストに対する読者の解釈をなるべく衝撃的に覆すために言葉を重ねる技法が叙述トリックである。
 物語は時間経過に沿って綴られる。
 人物や状況の特殊性は明示される,紛らわしい表現は避けるといった普通の書き方を逆手に取り読者に偽の光景を想起させるわけだ。
 ミスディレクションの章で触れた中町信「空白の殺意」や法月綸太郎「雪密室」に見られるような巧みな言い回しによるミスリードもこの一種だろう。
 白人に見せかけた黒人と米国人に見せかけた英国人では印象が異なるようにそこではインパクトの強さが重視されるが元より厳格な定義があるわけではない。
 まず留意すべきポイントは叙述トリックの力場では著者が優位に立つということだ。
 我孫子武丸は「叙述トリック試論」(1992年)においてそれを,作者が読者にしかけるトリック,小説の暗黙の了解を破っており,全てアンフェアである,と端的に断じている。
​​​ というのが叙述トリックの一般論である。
 前述、我孫子武丸、の、叙述トリック試論、で紹介されている、二階堂黎人、の、猪苗代トリック、では最終行においてまさに叙述トリックのお手本の如き手捌きが披露され、京極夏彦、の、陰摩羅鬼の瑕、では犯人の死に関する概念により叙述トリックが深く静かに進行しているのだが、我孫子がいうようなアンフェアは認められない。
 そもそもこの技法をアンフェアというのなら読み手の資格がないとも言えるのではなかろうか。
 叙述トリックはある意味小手先とも感じられるが、騙される私が悪いと言える読み手になりたいものだ。






最終更新日  2019.04.30 05:00:09
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2019.04.29
カテゴリ:文学
​​​探偵小説と二〇世紀精神 笠井潔

​ 立花隆大先生からお叱りを受けそうだが、私はミステリーが好きだ。
 やめられない。
 そんなものを読むくらいなら他の本を読むと言った立花先生の言も一理あると思いながら、やめられない。
 立花先生の話では、ミステリのたぐいを読むのは時間がもったいない、ということである。
 しかし研究のつまり知的生活の対象をミステリに向けると
 しかも読者が慎重に読み進めるなら,犯人の正体を推理できるはずの記述が作中には随所に埋め込まれている,と若島(注:正)は具体的な事例を列挙して指摘する。
 犯人の心理描写はどうなっていたのかという視点で再読を試みれば,確かにクリスティーの綿密な計画が読み取れる。
 そしてクリスティー自身に手がかりを与える気など最初からなかったのではなく十分な手がかりを与えながらかつ容易に尻尾をつかませない,その叙述の手口の巧みさに感嘆することになるのだ。

という深読みに至る。
 さらに
 そして誰もいなくなった,の孤島をはじめ,エラリー・クイーン,シャム双子の謎,の山火事,綾辻行人の,霧越邸殺人事件,の吹雪など様々な自然条件のため外界と遮断された場所に複数の人物が閉じ込められ閉鎖空間で連続殺人が起きるという探偵小説的な設定が要約すればクローズドサークル・パターンの定義となる。
 閉鎖空間という点で,嵐の山荘,をはじめとするクローズドサークルは探偵小説の代表パターンである密室と共通するところがある。
​​​などというミステリ独特の舞台も登場し、私はワクワクしてしまうのだ。






最終更新日  2019.04.29 05:00:11
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2019.03.17
カテゴリ:文学
​​​​​
武蔵野をよむ (岩波新書) [ 赤坂憲雄 ]

 武蔵野の荒涼とした雑木林に憧れて小学生の頃,国木田独歩の,武蔵野,を読んだ。
 今その,武蔵野,について書かれた本が上梓され懐かしくて読んでみた。
 著者はなんとこの武蔵野の林について独歩の作品を傍らに置きながら考証しているのである。​
「昔の武蔵野は葦原のはてなき光景をもって絶類の美をならしていたように言い伝えてあるが,今の武蔵野は林である」
 今の武蔵野は林である,と言い切ってみせた時,独歩は明らかに草から雑木へと武蔵野のイメージが大きく転換して行く狭間に立っていたのだ。
 今でこそ武蔵野は林と言うイメージなのだが,独歩の時代は草から木への端境期だったらしい。
 独歩が武蔵野の林に興味を持ったのは​
 独歩は西の人であった。
 今目の前にある武蔵野の落葉林は明らかに西国の森の風景とは異質であった。
 東北の森とも異なっていてることをどうやら独歩は知っていたらしい。
と彼が西の人であり,西の林とも東北とも違うことに端を発するらしい。
 それは確かに西日本の照葉樹林とも東北のブナ林とも異なる。
 歴史的には照葉樹林が伐採されたあとに生まれたコナラ,クリ、クヌギの二次林だったのである。
 人が常に手を入れ管理することによって維持されていた二次林である。
 そう武蔵野の林は二次林,人の手がかからなければ,荒れてしまうのだ。
 大切なのは頭ではなく手だという。
 作家は手で書くのである。
 だから独歩による「風景の発見,旧来の風景の切断は新たな文字表現によってのみ可能だった」と,柄谷行人はいう。
​​​​​ 二次林の武蔵野を独歩は文学で表現したのだが,草から木への端境期,その状況を表現した文学的能力はすごいという他ない。






最終更新日  2019.03.17 05:00:10
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2018.11.22
カテゴリ:文学
​​​
柴田さんと高橋さんの「小説の読み方、書き方、訳し方」 [ 柴田元幸 ]

 文学とは小説なのだろうか。
 小説等ということで考えれば詩等も入ることになる。
 これらの文芸作品全てが文学というものなのだろうか。
 そしたら文芸というジャンルとどう違うのだろうか。
 私にはよくわからない。
 ただ小説は素晴らしいものだということについては私も同感だ。
 この本を読んだ頃は一生懸命小説を読んだ。
 特に翔田寛とか小路幸也,山口雅也等について読んだものである。
 その頃は今年の9月前後頃のことであった。
 小説を読んだのは本当に何年振りあるいは10何年ぶりかもしれないぐらい久しぶりの話であった。
 小説の素晴らしいところはそこに書かれていることが嘘かもしれないということですからね。
 あるいは本当なのかもしれない。
 つまり一種の手品なんです。
 だから小説家は種明かしをしてはいけない。

​  確かに小説は
 小説より面白いものはこの世に存在しない。
​​というものかもしれない。
 けれども速読を身につけてしまった私には一気に読みきれないその不確実さもたもた感がまだ 好きになれない。
 小路幸也と翔田寛は五十音順に並べる書店あるいは図書館では常に隣り合っているのだが小路幸也は多作であり翔田寛は寡作であるということが判明した。
 若い頃は多作な作家のすべてを読もうとその本を揃えたりもしたものだが今は小路幸也に関してはちょっと飽きてもう読む気がしないのが現実である。
 小説はエンターテインメント なのかもしれない。
 それをもって文学とも言い切れないのかもしれない。
 文学のほぼ一部というのが正しい 解釈だと思われる。






最終更新日  2018.11.22 05:00:07
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2018.11.21
カテゴリ:文学

デビュー作を書くための超「小説」教室[本/雑誌] / 高橋源一郎/著


 さてそんなことで 文学とは小説を書くこと,読むことなどではないのだろうかなどと考え,この本を読んだ。
 この本では文学賞の選考について書いてあったりする。
​​
​ 「選考委員,全然読めていないじゃん」
 批判されるのは構いません。
 選考委員に好き嫌いがあるのも技術的な拙さを指摘されるのも当然のことです。
 でもそうではなくて選考委員が読む能力に欠けているためにわからないの一言で落とされたとしたらどうでしょう。 ​
​ だから選考委員は読む能力に長けているとでも言いたいのか。
 結局こういうものは人が選ぶものであって選ばれようが選ばれまいが何とも言いようがない。
 何か基準点があってそれに合っているとか合っていないとかいうことで点数が付けられるものでもない。
 その時の選考委員の感覚で決まるものであろう。
 しかしながらやはりその内容に一貫性がなければあるいは日本語の文法がおかしくないとか漢字とかそんな形式的なことも当然問われるものだと思う。
 主語から始まって述語が全く噛み合わないとかそんな文章は当然選考されるはずはないと私は信じる。
​ 1対3です。
 多数決で行くとこの時点で応募作品は落選するでしょう。
 しかし新人文学賞の選考会に多数決の発想はありません。
 3人は分かっている1人に「Aのどこがいいのか教えて」と尋ねるのです。
 (略)
 選考委員が納得するのは多数決でなく理解なのです。 ​
​ こちらは新人賞の選考について書いてあるが著者が言いたいのは要するに多数決で決まるのではなくて合議制なんだということなんだと思うけれども,だからといって一体何なんでしょう。
 ただ選ぶ方に責任があると思う。
 なぜなら賞を取ると取らないとでは本の売れ行きが違うと考えられるからだ。
 誰がどんな本を読もうと勝手だけれども賞を取ったものを煽るのは人の常。
 そしてそれが本屋に 平積みにされたりしたらやはり手に取ってみることは必定。
 つまり賞というものはそれほど重いものである。
 私は偉そうなことを言うわけにはいかないけれどもお笑いの方がある非常に価値のある文学賞を取られ今ではお笑いよりも先生先生と祭りあげられている方がいるけれどもあれは一体 どういう現象なのだろうか。 
 当然そういうことがあってもいいとは思うけれどもだからといってじゃあ彼はその後どんな作品を書いているというのか。
 いつまで彼は先生面するのか。
 そんなことを考えると選考というものはもっと責任を持っていただきたいものだと思う。






最終更新日  2018.11.21 05:00:09
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2018.11.20
カテゴリ:文学
​​​​
小説作法ABC 新潮選書 / 島田雅彦 【全集・双書】


​ 結局文学とは小説をいかにたのしみ評価するのかということなのだろうか。
 ただ単に愉しめばいいのではなくてたとえば
 大岡昇平「武蔵野夫人」
 その物語の舞台は武蔵野です。
 しかし大岡はその小説を地層や水はけといった土壌にまつわる記述から書き起こして行くのです。
 地理的特色をとらえるところから小説を書き始める作品などめったにありません。

のような切り口で批評する。
 まだ本作品を読んでいないが,この批評を読むと,この作品を読みたくなる。
 読んだ人がその作品をどのように感じるかということは実に重要な問題であり,つまり,文学とは小学校における感想文から始まるものなのではなかろうか。
 したがって軽々に小学校において感想文を書かせるものではない。
 文学を嫌いになる小学生が増えてしまうのではないのか。
 ただでさえ本離れ,読書離れが増えているというのに。
 次,​
 殺意を抱いたその瞬間に鼻で笑い寛容さを 取り戻すのである。
 逆に言えばここで我に帰ったりせずに。
 桐野夏生作品,例えば「グロテスク」や「東京島」のヒロインのように己が欲望や怨恨にのみ忠実に存分に破壊衝動を解き放つことができたらさぞ爽快だろうとも思うはずです。
 もうその中では怪物キャラに成り代わり気に入らない奴らを皆殺しにすることもできます。
​​​​などという文章を読めば,桐野夏生の作品を読みたくなる。
 かような批評文を書けることはすごいことである。
 少なくとも上の2つの作品をぜひとも読みたくなるではないか。
 これが文学というものなのかどうかはわからない。
 この批評の対象である作品を書くことも文学というのではなかろうか。
 こうしてみると,文学というものは奥深いものであり,簡単なものではないということになろう。






最終更新日  2018.11.20 05:00:06
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2018.11.19
カテゴリ:文学
​​​​​
文学理論 (1冊でわかる) [ ジョナサン・カラー ]


 ここからは当分の間文学論なんて分野に入る。
 なんで今更なんて思われるかもしれないが,なあに,高校時代私は文芸部にいて小説などを書いており,そして大学は文学部に行きたいと父に申し入れしたが,文学で飯が食えるかと一喝され,結局あのときの消化不良ゆえ,今になって文学理論なんてものを読み始めたというわけだ。
 けれども,科学よりもちんぷんかんぷんなのだ。
 歴史を理解するためのモデルとなるのは要するに文学の語りである。
 物語を聞いたり読んだりしている我々はプロットが意味を成すのか辻褄が合っているのか物語が完結しないままか容易にわかる。

 などという理論をどう理解するといいのか全く不明だ。
 たぶん歴史は文学で成り立つとでもいうのか。
 文学の杓子で歴史がわかるということか。
 つまり歴史は文学であるということか。
 うーむ,わからん。
 ストーリーが基本的に必要とするのは何だろうか。
 アリストテレスはプロットが物語の最も基本的な特徴であり良いストーリーは初め,中間,終わり,を持ちその順序にリズムがあるために喜びを与えるのだと言う。
​​​​​ なんて理論わかりますか。
 これじゃあ,あーた,文学部になんか行かなくてよかったということじゃあーりませんか。
 うーむ,と唸るばかりの私なのでありました。






最終更新日  2018.11.19 05:00:08
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