ちくでん村 mugibatake専用別館

2008/01/15(火)12:32

自然環境 23

哲学研究室(3227)

 そこにはリアリティの重複使用があり、そのことで見えなくなっている部分がある、ということは過去に何度も述べてきた。意図的な時間の重複使用があるのだ。  バーチャルという言葉の中に、すでにあらかじめ現実(リアリティ)が、そしてそれを可能にする時間が含まれている。ドウンス・スコトゥス先生の述べたバーチャリターの定義の中にも、それは明確に記されている。(但し逆に、現実の中にあらかじめ含まれていると、書いてあるが。)  それに重ねてリアリティを強調することで、別の時間が導入されてしまうのだ。  この技術におけるリアリティのあり方は不明確となり、xor関数のように、重なった背後に隠れて見えなくなる。  これが意図的なネーミングだとは思いたくないが、科学技術にとっても、それを享受する我々の側にとっても、適切なネーミングではないことは確かである。現実操作こそが目的なのに、それを隠そうとしているからである。単にバーチャル技術で、よいのだ。   どういうことか、というと、ある人の現実感は、その人の現実だという事実である。  他人からすれば、それは対象化した時間的なクラスにすぎない。だから現実感という対象化可能な時間の集積でしかない。しかし体験者本人には、それが現実である。  バーチャル・リアリティ技術の成果が実施される対象は、個々人の人間である。だから現実感操作というのは技術構想側の無責任な発想であって、これは正しい使い方ではない。よく文句を聞く最近のマニュアル書のようなものである。あれはほとんど、使用する人の立場ではなく、提供した技術者の立場から書いてある。  思惟のパースペクチズムを駆使して考える(あるいは、やぶにらみする?)と、ここにある科学技術特有の、しかもそれを可能にしている考え方が、よく見える。極端な例を挙げるが、劣化ウラン弾は戦車の装甲をぶちぬくために開発された技術成果であって、民衆に被害を与えるために開発したものではない。だから劣化ウラン弾は無害である、という考え方である。  この問題は、科学技術を考える際の極めて重要な問題であるから、大げさに述べているとは考えないでほしい。命題に忠実に定義を重ね、技術成果を重ねて可能となる科学技術構想であるが、そこには過去の時間の反復意図しか見ていない、ということである。時間論に対しては、全くその目は開かれていない。実は、その命題を立てる目が、科学技術の本当の一歩を進める推進者であるのに、である。  バーチャリターを見出したドウンス・スコトゥス先生のその目は、未到来の時間の目配せを見ているのであって、それが新技術を可能にしているのである。先鋭の技術者たちは、そのことに気がついている。主意識と福次意識の乖離が大きいほど、この技術は成功した技術とみなされる、と、明確に述べている。現実と、そこに含まれる過去の時間を、その乖離に重ねて、目配せを消してはならない。    今年は早かったカトレア。こいつが咲いている。写真は昨年のもの。

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