2012/07/08(日)08:00
タ・フィシカ第2巻第六章 哲学の復権 6-102 哲学者と智者
わが国はもともと哲学の導入に失敗したので、ヘーゲルの理念に学んだ本物の専門志向家が居ただけであると思う。この世界で専門志向のない小生は、擬似哲学徒であるにすぎない。スキエンチア風に分類すれば、オタクの一種であることになる。
横文字の書けないスキエンチアの論文はありえないように、横文字でデンケンできない哲学も、この専門志向学という伝統世界には、居場所がないからである。
文献学と歴史学主導は、やはり揺るぎないが、ほとんど誰もが専門家を目指していたのである。専門、つまり、科学を、である。
自分で見出したアルケーと向き合って無知を見ようとはしていない。まあ、そうしないと食えないから、であるのだが。
西田先生も、本屋の指導で題目を変えねば出版もできなかった。先生より本屋が偉かった。
哲学で食えない小生など、声をかけていただければいつでも、題目どころか中身も変えると公言しているのだが、著作を売り込んでも、無いカネを、いくら出せるかという話にしかならない。
純哲の専門家の間では、哲学というのはもちろん、形而上学である。
文献学や歴史学だと思っている人は門外漢で、斬新なエンターテイメント思想探求、西洋風の修辞探求だ、くらいにしか思っていないのだろう。
わが国では哲学という教科が倫理・道徳の枠内で監視されている事態なのに、これに異議を唱える学者も少ない。そんなところを見ても、本物の哲学者も、倫理・道徳的仲介技術を真剣に探求しているソフィストの専門家も、ともに少ないのだろうと思う。
ソフィスト(智者)と哲学者(フィロソフォス)の区別は、プラトンやアリストテレスが明確にしてくれている。この区別は紙一重、なのであるが、厳として今でも、ある。
宇宙や世の成り立ちや人間について、こうだと教えてくれるのはソフィストで、実はわからない、ということを具体化して悟れるように教えてくれるのがフィロソフォスである。哲学はフィレイン・ト・ソフォンで成り立っている。
哲学者(フィロソフォス)は、知にではなく、知への親愛(フィリア)の方に囚われている。
なので、ソフィア(知)に囚われたソフィストと違って、知という明るい共有理念を押し付けることはない。
むしろ理解不能な部分をこそ暗く指し示して、倒錯したその愛の誠実さを示そうと努力する。
誓約の場、ロゴスに至ろうとするのである。
だから哲学の「何であるか」をまったく読み取れない、親愛(フィリア)と馴染みのない性格の人には、哲学者の数だけ哲学のテーマがあるように思えてしまう。
実は、たった一つのテーマしか、ないのである。
その哲学のテーマも、過去から一貫して、「ウーシア(現有)に対する巨人(族)の戦い」、と言った風に、(ゆがんで)表現されてきた。(これはハイデガーのテーマ表明である)
自然物に対する人の戦い(科学技術)、ではないのである。
人に火を与えて後、絶滅した種族、プロメテウスという巨人が属していた架空の一族の戦いを受け継ぎ、引きずってきたのが哲学なのである。必ずヤブニラミ、倒錯した親愛なのである。
余談。
古代ギリシャでは、愛にはこのフィリアのほか、エロースとアガペーというのがあった。ソフィストの多くは、この二者が特に好きなようであるが、哲学とは、ほとんど無縁である。