2013/11/08(金)07:19
タ・フィシカ4第二章 自然環境問題としての政治・経済 2-13
このポエチカについても、過去のタ・フィシカで論及した。
そこで見出したのはミメーシスとカタルーシスという、二つの、人間が誰しも普遍的に持つ権能だった。
対象化認識において、不審さや厄災が価値に変ずるはずはない。それらは祭られて封印され、遠ざけられる。
ロゴスが導く、不審さや厄災に注目するのは、自分に懲りない哲学者だけである。
哲学者を含め、普遍的に人々が心惹かれるのはロゴスの技ではなく、ミュトス(技芸)の技である。その技がもたらす、ミメーシスとカタルーシスなのである。
特にこれに通じた人が、詩人とか文学者、ミュージシャンなどと呼ばれる。
ミメーシスは再現だとか模倣だとかに訳されているが、再現だとか模倣だとかやって、詩人とか文学者、ミュージシャンになれるんだろうか。
そんなわけはない。だからこの再現だとか模倣だとかの訳は、根本的に間違っているのである。
詩人とか文学者、ミュージシャンがもてはやされ、希求されるのは、彼らのミメーシスの技が、人々の共感を誘い、人々にカタルーシスをもたらすからである。
だから古代ギリシャの人々は悲劇に立ち会って涙を流し、役者に喜んでカネを払った。
その、どうしようもない悲劇のクライマックスで采配を振るい、人々の溜飲を下げてくれるのが、機械仕掛けの神、という、仮想の仕組みだったのである。
ここには神の本質が、あらわに見えていた。
一連の仮想現実を反復し、そこに仮想の神が参入してきて、すべてが予定調和される。人々は悲劇の破綻から開放される、その開放感に浸るためにカネが払われてきたわけである。
ここで機械仕掛けの神という基準が導入されて、ミメーシスとカタルーシスの価値化が生じているのである。機械仕掛けの神を頂点とする、悲劇というミュトス(技芸)によって、ポイエシスがもたらされたのである。