2017/01/27(金)09:14
イメージの哲学第四章 エ・メ 11 乖離
・・・である、ことの本質は「過去の責任」、に「ある」。
自分の身体(進退)への責任でもあるために、この「ある」は、ヴァーチャルにならざるをえん、のである。
経験が記憶している過去だけでなく、未だ、どこにもない未来にも責任を負っている。
この過去の責任はまた、直近、過去の感性の乖離とその統覚把握でカルト形成し、今という瞬間の、「時空を超越した悪魔的思惟」の温床となっている。
どういうことかというと、統覚として全権掌握しているはずなのに、そのクラス把握のもとは、身体の個々の機関が報告してくる感性にすぎん。
その感性で型枠をつくって、情報反復、再現をやって、現実として確認しているもんだから、経験的に得られた情報と、クラス形成のもとになったさらに古い情報との齟齬が、どうしても出てくる。
この世は一期一会、なので。
いくらフィードバックで情報修正やってもダメ。経験則も、先験的判断あってのもの。
この関係は、倫理と道徳の関係と同じである。
フィードバックの理屈で、修正やって埋めることの出来る乖離ではない、のである。
倫理は言うならば感性でこしらえた型枠である。
課題に直面した人は、その感性の型枠にしたがって、理性判断する。
感性の奴隷なんで、その型枠なしに、理性判断を導くことはできない。
一方、道徳というのは、その型枠の言葉でこさえた課題対処への道筋のことである。
勝手に路線が引かれているんで、どこへ導かれるのか、わかったもんじゃない。
しかもすべて過去のものであって、今、直面する課題はあっても、その課題把握自体が過去の誤った判断からきている。
これは、過去という感性の反省から、きているのである。
過去のものなので、もちろん修正は利かない。
だが、未来の予定だと修正が利くと、思い込んでしまうのだろう。
未来は未到来だから、修正なんて利かないのである。
想定外のことになるだけ。
乖離の本質、オイラたちがヴァーチャリターとして理解してきた、経験的認識と先験的認識との乖離は、感性が、すべての図式の型枠であるがゆえに起きてくる。
取り消しがたい運命である。
だから感性抜きに理性を作ればいいじゃんかという発想は、すべての型枠の図式が感性で出来ている(時間・空間で出来ている)がゆえに、もともと悪魔世界のモノ(どこにもない)なのである。
魂の世界、などといったマトリクス世界を勝手に作り上げて、その悪魔世界で理性の型を、勝手に構想することはできる。
しかし構想力自体が感性で出来ているので、このマトリクス世界からは抜けられなくなるのである。
自分の身体(進退)への「責任」でもあるために、すべての理性判断はヴァーチャルにならざるをえんのである。
キリスト教徒のように、魂だけの軽い存在者となって、感性の持つ誤謬を逃れようなんて、無責任なレビの、悪企み予定でしかない。