ちくでん村 mugibatake専用別館

2019/08/02(金)07:23

対象認識について(推敲)第四章 客観的感情 4-6

哲学研究室(3229)

 存在論というのは、だから、この・・・である、オイラの享有が支えている論議。 そのありてあるものごとを、共有社会で論議しようとしたら、享有する魂の証を、いくら提示しても無意味なのである。  プラトン主義者は、このことに気がついていない。  プラトン先生は解かりきってた、と思うんだが。 アリストテレス先生は、・・・である、享有出ー来る日常を相手にしていた。  しぜんな様と共有論議との乖離に深く切り込んで、対象認識のものごと、すべてを解かろうとしていた。  自然論者たちの、おかしげな常識論議から遠ざかるために、自然学のメを書いた。 常識人たちの形而上学を批判し、そのマトリクス世界を破壊するために、感性論議やポイエシス論議をやっていた、のである。  これをワヤにしてしまったのは、後のスコラ学者たちだろう。  当時のローマ社会のエリート奴隷主たち。  彼らは、哲学を奴隷化したのみならず、錬金術に貶めて殺してしまった。  もちろん身内から、ドゥンス・スコトゥス博士のような、本物の哲学者も出たが。  この、自分が・・・である、と確信する、そのことをぶち壊し(基礎的存在論とは、そのこと)ながら、崩れていくアーベントラント(西洋)の終末に立ち会っていたのが、ナチス党員のハイデガー先生だと思う。  陰謀をやる人たちが寄ってたかって、トゥーレ主義者の先生を、実存主義者にしてしまった。  小説家のサルトルなんぞとは、無関係なのに。  ・・・である、そのことを反省、懺悔することは、もちろん自分を否定せねばならない。  だからといって、神の世界に実存したりしない。  例外的単独者は、破滅して死ぬしかない。  だから、出て-立つしかない。   脱存。  しかし否定すべきなのは、自分の心に巣くった神学のほう、なのである。  先生もそれに気づいてはいたと思う。  だが、口にはだせなかった。  悪霊の否定の声を聞いて、エク・ジステンツ(出てー立って)して、自分の内に居る肯定の神を名乗る、光の悪霊ルシファーを、破壊せねばならない。  別に、サタンの側に立つわけじゃない。  ルシファーの別名が、サタンだからだ。 既存の時間・空間という感性の形式を出て、ー立つこと。  これは実存ではなく、脱ー存なのである。  これを哲学として言うために、ヤスパース先生などは、脱存じゃなくて脱存論なんだ、という、回りくどいが確実な言い方をしてたと思う。  エク・ジステンツは主義主張や信仰じゃなくて、哲学論議なんだと。 この出て-立つこと(エント シュテット)と、出ー来ること(ポイエシス)は、実はおなじものである。  モーメントが違うように思える、だけ。  出てー立つことと、(時が)辰こと、は、おなじことである。  ほんとうに、過去の日本の言葉は、考え抜かれて出来ていることがわかる。  市政の人々がギリシャ悲劇に涙を流す様子を冷静に観察し、その演劇の様式をバラシてみながら、アリストテレス先生は、ロゴスを暗い基礎で支えているミュトス(芸能)を解かろうとしていた。  それが、先生の著作、ポエチカ(詩学)である。 対象認識の論理的ものごとの基礎には、暗い感情の世界があり、存在論の基礎には、暗い時間がある、のである。  誰もが、虫けらすらが、これを持っている。  精神がある、んじゃあない。  目的や命題を持つ、認識を支えているのは、自分が享有する感情という名の(客観視すれば感性の)自己身体責任なのだ。  オイラの享有が支えている、この論議がなければ、架空の純粋な諸論議など、無意味主義である。  ニヒリスムスだ、ということ。  精神主義の別名は、ニヒリスムス。 だからモノホンのナチス党員であっても、オイラはハイデガー先生を、20世紀最高の哲学者だと思ってきた。  先生からトゥーレ主義を、ナチズムを追放したら、たぶん何も残らない。  客観的認識から、感情を追放は、出ー来、ない。

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