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2024/08/23(金)06:42

哲学史36-23 オルガノン再度(心身一体の哲学)6カテゴリー

哲学研究室(3229)

 <生命の・法則>  オルガノンを、大雑把であっても構想してみたい。  切り殺した知的精神や生体のカノンではなく「生命体の基本法則」を見出してみたい。  そんなもん「ない」かもしれん、のだが。   その有無は<享有>が鍵となるのである。  人は無知だからあらかじめ、享有して「ない」のである。   しかし享有があるんだから、「ある」。  ・・・であるという認識を司るのは享有だから。  だから共有にはないか、というと、それがわからん。   人と言う種族は起きて続いている、と言えるだけ。    ただしシツコク言うが、オルガノンは論理学の虚無主義とは無縁だし。  本体著作が、未だアリストテレス先生の著作にはなってない講義録だったし。  この試みは単に、先生の哲学構想を想定してみる、といった程度の意味でしかない。  これは「人倫の法則」とはモロに絡むのである。  だが生物再現人工の学でないのはもちろん。  生きている享有者の日常を作り上げている見えてない図式相手の探査なので。  先にも見て来たとおり、科分離思惟にはなじまない。    そのうえ、信仰的思惟とも場違いなので。  特に哲学の無知と論理の虚無を混同している虚無主義者の一神教的信仰に基づく論理的なカルト思想、つまり優生学は、先に徹底駆除しておかねばならない。  論理主導だと必ず信仰の問題がしゃしゃり出てきて、あっさり虚無主義(ニヒリスムス)に落ち込ませてしまうからだ。  落ち込むのは本物の論理主導のものなので、本物思惟であっても超危険物。  偽物は単に修辞学が絡んだ偽物詐欺なので、邪魔なだけだ。  世間に流布しているアリストテレス先生の思想は、ローマ作「古典ギリシャ思想」と、本来の「ヘラス思想」に二分されうるのである。  そのことがハッキリとオイラにもわかってきた。  本稿は、心身一体のヘラス哲学を目指すので。  書き換えられる前のヘラス思想のほうを、アリストテレス先生の基本思想だとみなしていく。  なので、既存の全集のオルガノンに書かれていることは、ほとんど全部無視する。  しかし既存文書無視してもヒントはそこにある。  オルガノンは<実在の生きてる哲学>だ、ということ。  実在に関わるのは感性の哲学的反省であり、棟梁の英知は、その経験と反省の徹底に深く関係している。  ヒント提供者が、カテゴリーになりうるのである。  カテゴリーは命題ではあるが、享有相手の倫理である。  英知(神)がやる「範疇」なんぞではない。  人の感性が集め、そこに見出したもの。  ロゴス(言語)のカタログにすぎん。  古典ギリシャの「範疇」利用では、虚無主義に落ち込むか政治思想に囚われるかしかないが。  しかしヘラスのカテゴリーは、オルガノンの、まさにそのカノン(法則)のキイとなりうるのだ。  カテゴリーというこれは、単に<無意味な命題のモノではない>、のである。  無意味だとそう考える人は虚無主義者や一神教徒にも多くはいるが。  実際にカテゴリーは、個人享有者に対してのみだが、強固な倫理力を行使する。  享有者に対してのみ働く、のである。  共有者は無視する。  共有社会では、範疇的な<客観的判断済、区分け済>といった、通過済の意味しか持たない。  パスする。  しかも世間的な意味だと個人への力が見えていないわけだから、範疇という理解は誤りとなる。  「現実の人倫の制約モノ」は、個々人が有限であるそのゆえんだ。  命題表現の無意味を削ってったらカテゴリーになった、んではなくて。  (そういう、へんな論理学的理解が多いようだが。)  命題は拘ってはならんもんだと、先生はあらかじめ知ってた。  そのうえで。  先生は、まず(実体)を見つける。  そしてさらにその。    (分量、性質、関係)。    (場所、時間、位置)。    (状態、能動、所動)。  都合10個のカテゴリーを見つけた。  これらは人の生命の、生きたカタログ・ロゴスであって。  <実在の証(あかし)>となるもの。  オルガノンの<ある>ことの、証なのである。  くれぐれも、範疇なんぞではおまへんので、間違わんように。  実在をロゴスのカタログに並べて、その実在を証(あかし)ている特殊な命題。  それを、アリストテレス先生は先例のプラトンに倣って、独自に自分自身のものとして見つけた。  享有の倫理的制約を頼りに見つけたのだ。  オルガノンの構想を導くナニカのものから、逆に(哲学的反省で)辿って、演繹同定していって見出したのである。  オルガノンを導く仕組みを探ってったら、判断済み認識を導いているものとしてこれらの<命題要素が出て来た>のである、とも一応は解釈はできる。  しかしあくまで命題を検討したんじゃなくて。  命題が「結果的に出て来た」、っつうこと。  目的思惟じゃなくい。  それと逆の、反省的思惟で、過去の実体となって見つかった。  実在をもとに。  まず最後に収斂すべきだろう<実体>概念という、命題の核となる言葉と出会い。  特に(状態、能動、所動)などの、<構想を動かす力関係>みたいなナニカが、そこに見つかった。  実体のナニカを制約する力関係だ。  構想には未だなっていないから、力関係なんぞではない、のだが。  「実体」は特に、すべてのカテゴリーを包摂する命題だろう。  最初に見つかったのだが、最後にある言葉。  実体がなければなにもかも幽体にすぎず対象とはならなくなる。  固有の時空を持たない、量子みたいなもんとなるのだ。  (そんなん、ありえへん。)  表象ですら「実体の表象」なのである。  実体のないナニカなんぞは、ウソもんであることになる。  カテゴリーは、心の法則を導くのだ。  見えてない構想の、制約や形式をなす、その核心部分なのである。  (信仰なんぞと間違わんように。)  (神の作ではなく、これは人の感性の作。)  カテゴリーはそれらぜんぶが、心身一体で、実在のカギとなるものなのだ。  ここに、この享有構想の時空に、「形容」や「力関係」といったものは、まったく見つからなかった。  これもヒントになる。  「エイドス」、「エネルゲイア」は、優生学的判断上においては最重要の命題とされている。  特に修辞学においては。  だがオルガノンにおいては、ほとんど<無意味>なのである。  この二つの命題はむしろ、形而上学的問いを導く合目的科分離のための概念、といっていいのでは?、とオイラ感じている。  カテゴリーの所属が、違うというより。  そもそも<実体的感性ではない>のでは。  カテゴリーは実体的感性の反省で出て来たもの。  つまり対象時空が本質的に確定されていないと、「形容」や「力関係」は出てこないのである。  そして実体感性のオルガノンには、形容も力関係も、未だない。  つまりつまりこれは、「優生学が判定済でないと、肝心のものが出てこない」、という意味だ。  オイラがアリストテレス先生の論議で最重要視される「エイドス・エネルゲイアの二元論」という代物に疑念持ち始めた理由が、ここにある。  対象が明確に切り分け済でないと、形容・力関係などは特定できないのである。  手っ取り早くいえば、科学的な分離思惟でないと、「形容」・「力関係」などは出てこない。  しかも出てくるときは必ず、形容・力関係、その「判定済」として、出てくる。  構想において実在は判定済み、なのだ。  つまり優生学判断回答済の、形而上学理念への問いなどとして、自己破滅的に出て来るのである。  アリストテレス先生の思惟が、形而上学的課題や科学的思惟を含んでいる、のは確かだが。  オルガノン構想の、それもカテゴリー検討のさいには、これらは除外されるべきである。  「形容」は、ファンタシアを表象と理解すれば、重要な概念なのだろうが。  ヘラス哲学においては<ファンタシアを表象と訳すのは誤り>、という問題もあることを先に検討した。  古典ギリシャ風に、ファンタシアが表象であって初めて意味を成してるのがこれ。  優生学。  そして「力関係」のほうは?  これも単なるカテゴリーではなく、優生学判定済の。  「具体的なゲバルト暴力」。  その合目的再現科学認識なのだ。  実在ではない。  帰納的な思惟に拠る、実体「想定」の類なのだ。  つまりエイドス・エネルゲイアは、人倫のカテゴリーにおいては、実在を証するものではないので、ここ、カテゴリーには上げられてないのである。  エンテレケイア論議なども含め、これらの論議自体がさほど重要な概念でもないのでは?という疑念も、ここからくる。  その背後にある、ファンタシアを動かす論理の空虚さが見える。  これにも、先生は当然気が付いてたのだろうと思えるからだ。  ファンタシアは、知性が主導し、瞳着させておこる。  極めて知的な、知性的認識のものだが。  但し当の形式に使われる図式の働きによる素材は、感性のものなのだ。  導きも、感性。  つまり知性の知性たるゆえんの瞳着は、感性が導いている。  つまりつまり、この「知性」は、「感性」の導きで初めて形式立てられる、ということなのだ。  その感性を持つ享有の生命体の法則が、反省の最初に見出されていた<実体>なのである。  現実の背後に居る構想だ。  先生が求めていたのは、空虚な論理や、ナニカに客観利用できる隠れ無き理論でもなくて。  享有者の、それも主観的実在。  ほんとにある、そのことの法則の反省的構想追認。  だからこのカテゴリーは、実体を自己主張する。  実在のその背後に、命題となる、「実体の生きた法則」があるはず。  人はこれを、感性によって導き出すしかない。  個別享有の生き物だから。  最初に見出した(アルケーの)、「自分の無知を、自分で知る事」。  これが哲学であり、哲学的反省の実践であり、倫理の行使である。  無から立つ「現実を騙ること」のうちに。  享有者の意味とすら見なせるかもしれん、<法則>を、これを見出し。  ディアレクチークの騙り、を、語りにすること。  これは、思惟を反省して受け取り直して、<演繹>することである。  哲学的反省は、棟梁的「演繹が最終目的」、なのである。  生命活動をも包摂する科分離思惟で見えなくなっている、ネガチブ領域を含んだ思惟が、先生の吟味検討する「対象」にあたるので。  しかも享有にして同時に共有の、生きた法則が大事だったんだと思う。  これを「神々の変容の法則」探し、といっていいように思うかもしれんのだが。  後のオヴィディウスの時代のような、神々と張り合うつもりなどは、まったくないのである。  同じカテゴリーにない、と言えるのだ。  ファンタシアをファンタジイ話にするつもりもない、というべきか。  実在は、その根が神話にある、というのが、ローマ風のウソだ。  これがまかり通っているので。  ハッキリ、言ってやるべきだろう。  「神話ってのは、ご先祖の伝承にあるのでなければ、詐欺師が騙るウソ話だ」。  時代の違うタ・メタモルフォーゼの作者とは、オルガノンは路線もまったく異なる、っつうこと。  アリストテレス先生のオルガノンに科学的要素はあっても、神話的要素はまったく<ない>と断定していい。  巨人に火をもらった伝承から恩義を感じていたとしても、神々との戦争なんて、考えてもいない。  ウーシアに対する巨人の戦いというのは、あくまで古典ギリシャ文化から出たナチズム神話に(つまり優生学の想定に)すぎない。  しかも先生のヘラス哲学論議に、優生学は、ない。  持ち込んだのは科学者なのだ。  「死すべき有限者」の、「自己の無知に由来する実在」その探査が、オルガノンである。  そいつを動かしているだろう<法則>の方を、つまり感性の方を反省しようと向いているのだが。  これは形而上学的問いが立っているのではない。  心理学、宇宙論、神学は立っていない。  感性を動かす、現に実在する、その<法則>を探っている。  これは享有の反省で行われている。  要は、まったく別の<共有方向から>無反省にこれを見たら、これが優生学探査になるのかも、っつうこと。  (しかしカテゴリーは、思惟モーメントが科分離思惟とは逆向き、なのだ。)  現実は、すでに起きたことで、これから起きる出来事ではない。  つまりこれらカテゴリーは、哲学する享有者を、既存の<日常的に導いている>倫理。  その日常をも形成している、現実の感性的規制の数々とともに、ある(このあるも享有特性)。  生きている実体の、<実在の証>部分。  その<鍵>となるものなのである。  鍵のシステム構想(みたいな、しかし感性の)もんだが。  それはよそからの視点だ。  つまりこれは「図式の享有実際の適用状況」であって。  過去の、決定済な時の秘密でもある。  それもよその視点では?  これらがよく構想における「実践」への<心構え>と間違えられる。  技術が適用されたように見えるから、なんだろうが。  しかし心による図式の「実践的権能」なんぞ、オルガノン探査は気にしてんじゃない。  科学者みたいに、神になるつもりなど皆目ないからだ。  働いている未知の図式は、論理や数学理論などといった客観的なアルゴリズムとは、まったくの「無関係」なのである。  なので要注意。  徹底して感性のモノでできている、人倫の側のものだが。  それらは等しく、客観性を全く持たないのである。  科学的認識には、一切馴染まない。  有限な時空を持たないからだ。  人が自分で自分を閉じ込める、単に倫理の側のもの、だっつうこと。  人倫に、共有社会は関係おまへんので。  倫理規制委員会なんてのは、倫理の見えん人の、へんな目的持った集まりなんで。  これもまちごうたらワヤになる領域だが。  世間が、コレまちごうちょる。  そして英知ではなく、コトが感性だから。  実在認識の図式に、中性的変容などもありえないのである。  つまり純粋悟性などは、この世にありえないことになってしまうわけだ。  必ず「うふぉ」になる。  (だからカント先生は、ア・プリオリ談義をもとに、<先験的>、という耳慣れぬ言葉を使って、世間的思惟と、自分の思惟を差別化した。)  (つまり胡麻化した、とはいえる。)  (カント先生は、世間共有者相手のディアレクチケーをやる目的で、組織に雇われたレクチャー師だったので。)    オルガノンは、これら中性でないナマの、生きた実在によって導かれる。  と言うより、導かれたオル・カノンである様を、感性で反省する。  実在を、「実体」のカテゴリーとして見出し。  それが居る途(オルト)・の法則を導くわけだ。  今ある、というより、あった過去的「居場所」の法則。  オイラのオルガノン志向思惟には、ふんだんにこういった科分離思惟が紛れ込んでいるので、泥沼なので整理しているのだ。  形容には拘らない(そのくせ実体)、と言うか。  適用済の変身物語などとは、まったく無縁なものとなる。  「形容」にも「力関係」にも、オルガノンは拘らない。  カテゴリーが、その心身一体構想の、モトのもん、アルケーだからだ。  ここが、オイラがタ・メタモルフォーゼ神話の神話性に疑問抱くようになった理由でもある。  変容は、表象が作る知的な<形容概念が先に働いている>のだが。  オルガノンの鍵は、それよりもっと先立つ。  感性ものだ。  これらの反省はほとんど「先験的感性論での法則探し」、といってもいい類となる。  カント先生の思惟に似てくる。  カテゴリーも、享有者を導き閉じ込める倫理牢屋のカギ法則なんぞではない、のはもちろんのこと。  判断済みの、心身一体の生命認識の形式や外形を作り上げていく、その素材、原因もんなどでもない。  むしろ、生きている<享有>という命の、<無知の知>部分に嵌る、命の鍵なのである。  それがしかも部分でなく。  全体で一つだということ。  カテゴリーを、部分鋳造の範囲と捉える用具的思惟には、決してなりえへん、つうことわかるはず。  享有のみへの問いとして、ネガチブに隠されている(図式様のナニカ、エトヴァスな)法則を求めての、隠れた理論や理屈の探求ではあった、とは思う。  それも、空虚な論理に基づいてのものでもなくて。  感性に基づいての、実体ものだ。  <カテゴリーの手引きで>実際に構想されうる、形容や力関係を伴うもの、なのだ。  エイドス・エネルゲイアは此処で初めて、関係するんだと思う。  実践的判断力が問題となりうる、その時空で関係する。  アリストテレス先生が仕立てたのは、生きた講義録(書き換えで失われた)だったから、この優生学思惟とは少し違うのだ。  <アリストテレス先生のカテゴリー>  論理学は、すでに整いかけていた。  それら優生学判断済の、実践判定済のものは哲学ではなく、数学的な時空理論物であることも、ほぼわかっていた。  先生は純粋基礎数学やってたんじゃない。  数学は一般教養にはなりうるが、数学から哲学には、ならない。  哲学(無知の知)とは別門だからだ。  アリストテレス先生のカテゴリーはそもそも、カント先生のように、時間・空間の純粋な直観形式のみを求めたものではないのだ。  そのことがわかるのは、カテゴリーそのものからだ。  あとでカント先生のも見ていきたいが、まずアリストテレス先生のを見ていく。  <場所>、<時間>、さらに<位置>とある。  固有の享有「場所」に加え、共有の「位置」指定までが此処にはあるのだ。  そして特定の享有者に、固有の時刻というのがないし。  「時間」と言う、共有感性の幅のみが置かれてある、という不思議さ。  つまり共有があるのに、これが判断、判定済の、つまり日常ものではない不思議さを持つのだ。  空間の享有居場所と、その共有位置、というのはわかるが。  時間が、<享有>、<共有>といったことの<区別を、そもそも持ってない>のである。  (図式適用前なのか?)  図式がすでに働いてるから、か?  いや、時間実体が人の側特有の、それと一体の感性と目されてるからだろう。  というか、時間は先生に見えてなかったか、あるいはこれを見出した先の方途が、カテゴリー制約となる図式を対象に示すものでなかったか、だ。  オルガノンと先験哲学という仮テーマにおいて(カント先生のも先験哲学、つまりオルガノンの一種なんやが)、カント先生と大きく違う点が、ここに見えてる。  カント先生は、思惟の反省を含んだ思惟実体の発見狙い。  そうであっても、あくまで<科分離思惟>の反省、なのである。  思惟が科学的思考の逆向きだった、っつうこと。  (コペルニクス的転回で、科学とは違う逆向きモーメントの思惟をカント先生は見つけた。)  だから先験的図式論が、でてきてたわけだ。  オルガノンには、その先験的図式論は<ない>のである。  (直の図式論はあるかも。)  アリストテレス先生の思惟は、もとより心身一体のものなので。  これは「純粋」想定の「悟性概念図式」とは違ってきて当然なのだ。  ぜんぶ現実の生命体もとに、想定済であって。  優生学も既に判断済のモノ、なのである。  (だから優生学がある、には決して使えないので注意されたい。)  純粋悟性概念などは、建前上は、ないとも言える。  実際には感性絡みだから、必ずあるんだが。  図式には感性的に、見えないままに、<導かれる>のみだ、とも言える。  アリストテレス先生の場合は違ってくる。  あくまで<実在を証す>実在「鍵」の重視なんで。  つまり<享有者>の(あらかじめ)純粋でない、判断済み図式の様態をアルケーに持ってきて据えた、というべきか。  優生学<経験済>の、フリーパス利用済というか。  もともと優生学問題には、「してないだけ」なのであるが。  またそうでなくては、感性など、もともと心身一体でありようがないのだ。  (カント先生みたいに、純粋を批判してぶっ壊すつもりあるんなら別だが。)  この問題には整理が必要だろう。  <整理>    オルガノンは、優生学的判断済の、生きて居る・法則である。  つまり科分離思惟によったとしても、カテゴリー適用後の生きているものである。  殺して要素思惟して解り、そのくせ生かして利用?  オルガノンという性格上、そうならざるを得ないのだ。  優生学判断抜きに、あんたが生きられると思うんなら別だが。  現実に、<弱肉強食はあるように見えてる>、からだ。  この<ある>を、許すかどうかは別の問題、だっつうこと。  列島に残る地蔵菩薩の理念のように、最弱の者から救済していく思想も現実にはある。  優生学は間違った、撲滅すべき思想なのだ。   オルガノンはしかし先験的思惟ではなく。  しかも現実にはありえない原則を見出そうとする、哲学的なもの。  つまり反省の思惟であるのは、先験哲学と同じだ。  優生学はアリストテレス先生の場合、もちろんまったくもともと問題にはなっておらず。  <そのかわりに>形容や力関係が、のちに問題となって後から出てくるわけだ。  形而上学問題が出てくるんで、古典ギリシャ思想には出て来た。  その形而上学話に理不尽な弱肉強食が出てくる理由を、あえて跡から問うたわけだ。  そう、弱肉強食は理不尽なのである。  不尽な部分の理は検討し、破壊し、論議し尽くして滅ぼさねばならない。  そもそも感性を感性として認知する以上、実在のカテゴリーには実体が立つ。  実体に純粋悟性概念など、出てくるはずないのだが。  カント先生は、<先験的哲学構想>でこれを見出した。  これはアリストテレス先生のオルガノンの実在の立ち位置とは、<まるで違う世界だ>ということ。  同じカテゴリーと名付けられていても、<実在の立ち位置>が、お互いにまったく違うのだ。  アリストテレス先生のは、心身合一的思惟の、オルガノンもの。  感性的な生命の実在を示す、それを実体として証すカテゴリー命題となる。  カント先生は、科分離思惟での、先験的哲学構想における感性的判断力の実在を示すカテゴリー命題の主題提示。  実在の立ち位置、つまり実体が、二人ともまったく違うのだ。  つまりこれらは、優生学含みの判定済みの時間・空間解釈が、お互いに違うということ。  時空解釈の違い由縁なのだ。  アリストテレス先生は優生学スルーの実体カテゴリーで、オルガノンもの。  時間・空間は、実体と別のカタログになる。  カント先生は優生学判断前の時間・空間を図式主導する純粋悟性概念のカタログ。  次回はカテゴリーの2回目、<実在の法則と、時間・空間解釈>から、さらに泥沼をかきわけていきたい。  煩雑でわかりにくい。  これは、オイラがよくわかっていないからである。

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