バベルの図書館-或る物書きの狂恋夢

2009/05/05(火)00:35

『利休にたずねよ』

見出し:利休を訪ねよ!! 山本兼一著『利休にたずねよ』(PHP研究所)  第140回直木賞受賞作である。大賞に絡む作品をタイムリーにチェックする癖がない(というよりも、そういう読書の仕方をして来なかった)私としては、このように敏感に直木賞受賞作を手に取ることは稀である。  そもそも、私は豊臣秀吉という人物が嫌いだ。むしろ、私には関係のない人、と表現した方が適切だろう。生理的に合わない。きっと、歩み寄るチャンスが互いにあっても、絶対に長続きしない―その理由が、利休と同じかどうかは措くとして―だろう。ウマが合わないと確信するのだ。 無論私は秀吉とは面識がないが、史実もとにしたフィクションを信じるならば、あのどうにも趣味の悪いサクセスストーリーが、後世あまたの勘違いを生んだように思えてならない。その張本人に、嫌悪感を抱きこそすれ、理解を示すという感情など起こりえようがない。  「わしが額ずくのは、美しいものだけだ」。そう嘯くのは利休だが、しかし一方で、秀吉に、世にいうほど美的センスがなかったのか、といえば、秀吉嫌いの私にしてもそうとは思えないのである。  なにせ美とは主観の究極であるから、主観を基準とする概念を普遍にしようとする利休の生き様は、いささか傲慢に過ぎる気もする。主観から普遍を生み出し、それを絶対とする。ならば、利休と秀吉の、諸事に美を見出すセンスに何ほどの違いがあるというのか。  本の話に戻ろう。本作は、多分一般的な歴史小説ではない、と思う。“利休の死=茶の湯の完成”への足取りを追う断片的なエピソードの並べ方で勝負は決まったと言えるだろうこの作品は、読者の心理を汲み取った、まさに作者の“もてなし”の表現だ。  エピソードの並べ方にさらに拘れば、読み進むうちに、本作品は、天正15年の北野大茶会が一つのベースおよび分岐点として設定されていることを知るだろう。  北野の大茶会を、秀吉と利休の蜜月のピークとする。そうして、これを境に、過去とその後を時間軸通りに並べて読み直してみると、人間の心の機微やその推量合戦の妙を練り込んだミステリアスな面白さはなくなってしまうのだが、もう一つの面白さが味わえる。利休と秀吉のもつれた関係のすべてが、すっきり整理されて理解できるのである。  あえて断片的なエピソードにフォーカスして描き、それらを作家自身の美意識によって巧みに散らした(並び替えた)ところに、本作で描かれる人物や情愛、美しさや時間の「移ろいの演出」があることに気付かされるだろう。  描写といえば、作者の細部の描き込みもまた、この手垢の付きすぎたテーマに、新たな光を投げかけている。秀吉の髷が細くなった、など、放っておけばそのままでよいが、あえて突き詰めれば、はっとするほどその人物の心理状態や状況、疲労や老いまでもが手に取るように知覚できる、このディティールへの目配りに、利休直系だろうか、並々ならぬ描写の力を感じてしまう。  つまらぬ寄り道もしてみる。ふたたび本作は、多分一般的な歴史小説ではない、と思う。そのゆえに、おそらく作者の意図に反すると知りながらではあるが、司馬遼太郎『風神の門』を引き合いに出してみる。 「狂人かもしれませぬ。ただしく申せば、風狂の者でござりましょう。あの者、才幹もあり、志も大きゅうござるが、そのこころざしの方向が決まっておりませぬ。自然、世に身を置く場所がなく、場所がないままに、世を空いてに自在に遊び呆けようというのではござりますまいか。男には、まれに、左様な型の者がござりまする。その才は惜しゅうござるが、かような者は、利をくらわしても動ぜず、おどしてもおびえず、他人のたづなで御する方法がござりませぬ」(司馬遼太郎『風神の門』佐助の評)  要は、志の方向が決まった利休と、決まらなかった才蔵の違いを惟うのは、馬鹿げた結び付けだが面白くないこともない。  ところで、『利休にたずねよ』では、利休の茶の湯、美の真理の追究の源は、叩き壊されてしまった繊細な恋にある、とされている。色恋の沙汰など、誰しも死ぬまで秘すものが一つくらいはあるだろう。それらをひけらかし、晒し、無防備にし、無造作に扱う神経に、執念も美の極致も立ち現れてこないのだろう。秘めた凄絶な恋心に侘びることの何たるかがあるのか。あの侘び茶の境地が、生涯をかけた現実逃避の結晶と思うと寂しいが、その実結構納得できたりもする。主体的逃避ではないにせよ、仙境への誘いは、茶の湯の演出的逃避の側面だからである。  ともあれ、成就せなんだ恋の想い人に、どこか似た人を重ねて想うことほど野暮なことはない。むしろ、一度の恋に相反する愛に身命を投げ、捧げて、美しい想い出との通い路を閉ざしてなお生きながらえる愚かさにこそ美あり。数多描かれた利休であるが、これほどにセンシュアルで生々しいのははじめてかもしれない。  利休にたずねよ。美について茶の湯について、あるいは政(まつりごと)について。様々な人物が手に負えぬ難題に突き当たった時、そう口にしたに違いない。だが、おそらく全幅の信頼と愛情を込めて、一番多く口にしたのは秀吉その人ではなかったか。「利休にたずねよ」。自分でもそう口にしてみたとき、敬愛の念を込めた時と、嫉妬や憎悪が混じった時とでは、きっとトーンが変わるであろうことを確信する。そうして、関白からの寵愛が、激しい嫌悪感に転じたとき、決して折り合わぬ二人の運命を思って、物悲しさが一層引き立つのだ。人間の業には、古今ほとんど進歩がない、いや変わらないものだ。(了) 利休にたずねよ ■「旅から、音楽から、映画から、体験から生死が見える。」 著書です:『何のために生き、死ぬの?』(地湧社)。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。

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