仕事が混んでおり、この二週間くらいは連日睡眠不足が続いていたが、それでも、仕事を週末に残しておく訳にはいかない。というのも、母方の祖母の米寿の祝いが控えていたからである。
祖父の米寿の祝いからはや5年近くが経った。祖父の米寿の祝いの頃と比べて、新世代達にもそれぞれ家族が増え、祖母の祝いには、総勢では、祖父の祝いを超える人数の家族が集まった。
全体の段取りから仕切りまでは、長女である母が担当(当然、実の両親を見送ってからというもの、全力で「妻の両親」を我が親として愛し支えてきた父も、大病や、その後の仕事の環境変化の中で母を支えてきた)。一時帰国していた次女の叔母のサポートが直前の母の多忙を支える(祖父の米寿の祝いの時と同じく、美しい記念のシールを作成してくれたカナダの叔父は、残念ながら仕事の都合で、帰国が間に合わなかった)。四半世紀以上にわたる米国での勤務を終えてようやく帰国した末子長男の叔父も、祖母の祝いには余裕を持って参加、である。
祖父の時と同じく、我ら従兄弟たちからの贈り物は、従兄弟長兄(我ら従兄弟五人は、兄弟みたいなつきあいなので、彼は長兄ながら、私の弟を挟んで“要の三男”という立ち位置である)からまず私に「今回はどうする?」とメール。それに対して、弟、従兄弟次兄に、一斉にアイディア募集のメール、は私の役目。それぞれが、忙しい中、アイディアや意見にゴーサインを出し合いながら、最終的に「祖母に合う帽子/春を感じる、旅をしたくなる帽子」をイメージに、今回は従兄弟次兄が、代表としてランチタイムに百貨店まで足を延ばして購入してきてくれた。我らが五人の末弟、従兄弟三男は、学業の都合でアメリカから気持ちで参加である。ともあれ、祖父の祝いの時より、それぞれが多忙になったからこそ、以前よりも連携プレーの精度は格段に向上したのではないか、これで心配なしと、呑気なだけの長男は思ったりする。
祖母は、原爆で家族を一瞬にして失ったのを境に、激動の人生を歩んできた人であるが、元来は所謂「お嬢さん」そのものような人で、呑気で、お茶目だが、決して人前に出張るようなことをしない人である。推されても、主役を引き受けるタイプでもない。長女でありながら、末っ子のようなところがあり、それがまたおっとりとした雰囲気を彼女に与えている。
その祖母が、人生の節目で、大勢の家族に囲まれて主役を迎えたこの日には、特別な意味があったことと思う。出席した一族一人一人に宛てて書かれたお礼のメッセージには、「たった二人からはじまり、懸命に守ってきた家族が、ここまで大きくなった」という意のことが書かれていた。絶対にしないと言っていたはずの挨拶も、短いながら、品格があって、言葉美しく、謙虚さに満ちた感動的なものだった。
個人的には、今の私の人格を形成する上で、祖母の原爆体験はかなり大きな影響を持っているが、その一方で、祖母からは、美術を愛し(いまは俳句の師匠でもある)、旅を愛し、季節を愛し、何より「母として家族を愛する」ことの大きさを教えてもらったと思う。私は母にはなれないが、「母」という存在が、計り知れぬ大きな一滴であり、それが家族という大河を作り上げているのだと教えられればこそ、母方だけでなく、父方の祖母、あるいは、顔も見たことがない、私の体に流れる「母たち」の“偉大さ”の系譜が、心にじんと沁み込んでくる。これは、「慈愛そのもの」と呼べるこの祖母だからこそ、生きて、「一族の母たちの記憶」を後世に伝える役目を授かったのではないか。
家族からのお祝いの挨拶、花束の贈呈、ケーキカットなど、事前に計画された予定は、スムーズに進行した。最後に、祖父から若い世代に向けて、「男一人では家族は作り上げられないこと。女性を大切にすること」というメッセージと祖母への感謝の言葉(仕事人間ではあったにしても、やはり家族を大切にしてきた祖父だからこそ、こういうメッセージにも重みがある)があり、病気も全快してますますほろ酔いも心地よい父の一本締めで祖母の米寿を祝う会はおひらきと相成った。
祖母にとって忘れられない一日となったように、我々にとっても愛すべき一日となった。時代は変わり、新しい母の形、新しい女性の形が相対化されてよしとされていく時の流れの中で、「大和撫子、女の鑑」を体現する「古き佳き女性像」の最後の砦、祖母にはますます清く、正しく、美しくいて欲しいと、この日願わなかった者はいなかっただろう。(了)
▲祖父の米寿祝いの記念品であったバカラのベースと並んでいるのが、祖母からの、やはりバカラの天使像。それぞれの家族に贈られた。二人からの記念品が、元気に肩を並べた。