30.荒木一郎加山雄三と同時期に一世を風靡した荒木一郎は、'44年1月8日生まれ。女優荒木道子の息子として生まれ、青山学院高校卒業後文学座に入る。 NHKの『バス通り裏』、『虹の設計』、『あしたの家族』などでドラマにレギュラー出演し、その独特な個性派俳優として私達に強い印象を残した。 荒木一郎が当時の若者達の間で注目されるようになったのは、ラジオのニッポン放送の『星に唄おう』(森永乳業提供毎日22時50分から23時までの10分間)のパーソナリティーを担当してからである。普通のDJ番組ではなく、日常生活を素材にし淡々とリスナーにきかせるこの番組は、'66年4月の放送以来、若者に大きな反響を起こした。番組の中で生ギターを手に、弾き語りで披露する自作の歌も感動的で、リスナーから山のようなハガキが寄せられる人気番組となった。そう云えば当時、この他ニッポン放送では『日立ミュージック・イン・ハイフォニック』、『バイタリス・フォーク・ビレッジ』、『東芝ヤング・ヤング・ヤング』更にモコ・ビーバー・オリーブ(ヒット曲があります。「忘れたいのに」、「海の底でうたう唄」など)の三人がDJを務めた『パンチ・パンチ・パンチ』などの人気番組が多く、ラジオのダイヤルは常にニッポン放送という若者が大勢いた。 '66年9月に『星に唄おう』のテーマソングで「空に星があるように」を、日本ビクターからリリースする。当時はシンガー・ソング・ライターなどという言葉はなく、自作自演と呼ばれていた。このフォーク・ソング調の素朴な曲は30万枚を超える大ヒットになった。続いて「今夜は踊ろう」で軽快なエレキ・リズムの歌をリリースし、この歌も大ヒットし年末のレコード大賞新人賞を受賞した。 '67年には、「マックス・ア・ゴー・ゴー」を『マグマックス5』というエレキ・バンドを従えてリリースした。しかし、加山雄三とザ・ランチャーズの関係のように強い結びつきはなかった。 その後は大きなヒットには恵まれていないが、GSのザ・ダイナマイツをバックにリリースした「ブルー・レター」が小さくヒットした。そして、俳優の仕事が忙しくなってきた時期の'69年にある事件を起こし芸能活動の停止を余儀なくされた。'70年代に入り活動を再開した荒木一郎は「君に捧げるブルース」をトリオからリリースする。 荒木一郎は、人気絶頂なときでも和製フォーク・シンガーと呼ばれることに抵抗し、「自分の唄はふつうの日本の歌で歌謡曲を歌っているつもり」、「これからも、若い日本人の唄を作っていきます」と語っている。だから、その気負いのなさが逆に荒木一郎の独特な魅力になっていてファンが今でも多くいる。
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