素敵なミュージシャン達

36.エレキの神様 寺内タケシVOL:3



エレキの神様 寺内タケシVOL:3



エレキの神様寺内タケシの第7弾 新生ブルージーンズ(結成25周年)について

ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアの弾く「ハイウェイー・スター」はテリーの「運命」をコピーして出来上がった曲。しかし、天才リッチーでもこの「運命」をコピー出来なかったほどテリーの早弾きは凄い
テリー・ピック


本文に入る前に、学習です。マシンガン・テリーとなる切っ掛けは、チェット・アトキンスの共演です。手のデカイ外国人に対抗する為に「小さな車は小回りがきくが、リンカーンはムリだ。小さな手は小回りがきくが、デカイ手は小回りがきかない。よしわかった。徹底的に早弾にに転じよう」と

'70年代になると音楽シーンはニュー・ミュージックやムード歌謡一色となり、無数に存在していたエレキ・バンドはブルージーンズが唯一残りました。
孤軍奮闘していた寺内の下に、第一線で活躍しGS時代を担ってきた若者たちが寺内を慕って続々と結集してきます。寺内はこの若者たちを中心に、'70年10月1日に再編成したバンドが新生ブルージーンズなのです。

ここにその当時、寺内が新生ブルージーンズの再編成に際してファンへ宛てたメッセージがあるので書き出します。(原文のまま)
ファンの皆さん今日は!寺内タケシです。今度さらに日本が世界に誇る本格的エレキ・コンボのグループを目指すため、ごらんのようにメンバーを一新しました。
私もギター生活25周年とハリキッテており、今度のメンバーは私を交えて?平均年齢が22歳とぐっと若返っており、音の方も新鮮さが加わり、若さに任せてやっております。
NTVのプラチナ・ゴールデンショーもレギュラーになり、大きい企画も色々考案中です。また12月にもコーラスでシングル盤も出す予定です。
皆さん、ヤングパワーに燃えるブルージーンズを応援して下さい。  昭和45年10月1日 寺内タケシ新生、ブルージーンズのメンバーは、寺内タケシ(LG)、石井イワオ(SG)、石井 薫(RG)、新庄 一(BG)、桐生和史(Key)、山本進一(Ds)、深沢ジョー(Vo)の7人。

ここで簡単にメンバーの経歴を紹介します。石井イワオは、横浜出身のGSフォー・ナイン・エースのリーダー、石井 薫は、フォーク・グループ、ブラックバスで活躍、関東学院大学在学中で母校寺内の後輩、新庄 一は、フォーリーブスのバック・ハンド、ハイソサエティーのリーダー、桐生和史は、尾藤イサオのバック・バンド、バロンで活躍、山本進一は、東京ベンチャーズ、フォックス、石田新太郎とシティーライツで活躍、深沢ジョーは、宮 ユキオとニュー・ジャガーズで活躍。

そして、ブルージーンズの結成25周年を祝し、11月にリリースされた5枚組みアルバム「寺内タケシ大全集」にファンに宛てたメッセージもあるので書き出します。(原文のまま)

私は今年でギター生活25周年をむかえました。6歳の時、兄貴のギターを奪取してから、今このLPの完成するまで、私の人生はギターとともに歩んできました。
25年間、いろいろな難問、難曲にぶつかりながら克服、それをひとつの勉強としてやってきました。
私はこのLPの製作にあたり、重大な決心をしました。というのは、25年間のすべてをこのLPの中に投入しようということです。このLPが企画されたのは、去年の8月、真夏の太陽がサンサンと輝く暑い日でありました。
完成したLPを聞くまでは、1日として、このLPの選曲、作曲、アレンジについて頭から消えたことはありませんでした。
25年間の総決算として、何としてもすばらしいLPを作ろうといういきごみで、スタッフ一同で数十回というミーティングを行ないました。
第一に、選曲について取り上げました。会社のデスクには、全国のファンからの私の製作するLPについての希望は山のようにつまれ、私自身夜寝るのを惜しんで一枚一枚読み上げました。この誌上を持ちまして、お手紙を下さった方々に厚くお礼申し上げます。
また身近なファンの声も必要であり、ステージがあるたびにファンの声も一人ひとり聞いてまわりました。
ノミネートされた曲目だけで1500曲以上になり、またまた私の頭を悩ませました。
選曲だけのために全スタッフとミーティングの毎日を送りファンの声をもとに選曲が終わりました。
世界の民謡、日本の民謡、日本の古曲、クラッシックなど数々の名曲を取り上げてきましたが、私自身がもっとも満足したLPは「寺内タケシの一人舞台」と題し、一人で全部の楽器をこなしたことです。
ダビングに次ぐダビングで、私自身もくたくたでありましたが、テープを回すミキサーの方も、精魂つきはてた状態でありました。
レコーディングは快調に進み、メンバー・スタッフの熱気でむんむんする中、私自身もてる力を存分に発揮し精魂込めてレコーディングしました。
このレコーディングを25年間の人生の区切りとして、ファンの皆さまに"限りないエレキの追求"を約束し、このレコードをプレゼントします。
『苦しくもあり、楽しくもあり、過ぎし日を、エレキと共に、ひたむきに歩く、エレキ万歳!』
昭和46年9月1日記 寺内タケシ

スタートした時は、本日で終了する予定でしたが、未だ書いていない'74年にスタートしたハイスクール・コンサートや'76年9月にロシアの白血病の少女エリーナの救済コンサートなどが残っているでもう暫く続けます。
テリー006


エレキの神様寺内タケシの第8弾 エレキ・ギター禁止令からハイスクール・コンサートまで

『苦しくもあり、楽しくもあり、過ぎし日を、エレキと共に、ひたむきに歩く、エレキ万歳!』
テリー・ピック


本文に入る前に学習です。エレキ・ギター禁止令の理由は、「エレキ・ギターに夢中になるあまり、勉強をしなくなり、勉強しなくなる生徒が増えるのは教育上問題」、「エレキ・ギターは騒音を撒き散らすので、近所迷惑」、「エレキ・ギターは少年たちを不良にする」により、聴くことも、観ることも、弾くことも禁止された。

'74年に寺内は「ハイスクール・コンサート」をスタートさせます。

これを決意させたのは、'65年10月、栃木県足利市教育委員会が引き起こしたエレキ追放運動でした。(この事は既に、バニーズで書いているので割愛します)
この「エレキ禁止令」は瞬く間に全国の学校に拡がっていき、マスコミも同調し「エレキ悪玉論」、「エレキ非行論」が新聞・週刊誌に大きく取り上げられました。

この当時の出来事を寺内はこう語っています。
宮崎県で開催したブルージーンズのコンサートで、会場の入り口に高校教師が監視に立ち、出入り口でチェック。入ろうとした高校生の学生証を取り上げていた。会場内はガラガラ。たまたま、逗子開成高校の引率の教師(寺内の友人)と生徒が修学旅行で来ており頼み込んで無料で入場してもらった。
会場の外には県内の大勢の高校生が学生証を取り上げられても待機していてくれた。僕は、会場のドアを全て全開にして外にいる高校生に聴こえるように、ブルージーンズは心を込めて演奏を行なった。と。

「レッツ・ゴー運命」のアルバムをリリースした寺内はエレキへの偏見(エレキ・ギターが社会から目の敵にされている現状を憂い)を払拭すべく、ハイスクール・コンサートを決意したが、門戸を開いてくれる高校(寺内自身で数百校訪問)はありませんでした。

門前払いを食わされた末、寺内は途方に暮れ、母校である茨城県立土浦第三校を尋ねます。
校長先生は寺内の話を聴く前に、尋ねてきた理由を理解していたとみえて、こう寺内に言ったといいます。
「寺内、なにも心配するとこはない。おまえのためにオレが命をかけてやる。うちの学校で演奏会をやれ、胸を張って、堂々とやるんだ」と。この校長先生のお話を聞いて僕は涙が止め処も無く流れた。
エレキ禁止令から3年、母校の県立土浦第三校で寺内の念願だったハイスクール・コンサート(県立高校のため開催後、「エレキ非行論」など賛否両論でマスコミで大きく取り上げられました)を行なう事に成功しました。

その後、少しずつ高校から公演以来が入り、北は北海道から南は沖縄まで場所や利益は度外して公演を行ないます。
北海道公演を行なうと、大型トレーラーに機材を詰め込み、メンバー・スタッフの移動に数百万円近い経費を伴いますが、高校からの公演料は数十万円。毎回、大赤字。
寺内は、「このハイスクール・コンサートで儲けた事はただの一度もない。演奏の目的は利益を稼ぐことではなく、エレキの素晴らしさを伝えるため」と言っています。

この、ハイスクール・コンサートの終盤に、寺内は毎回生徒たちに向かって数分間のMCを行なっています。
例えば、大都会の東京に夢を求めている高校では「故郷を愛せよ。お前らが故郷を守らなくて、いったい誰が守るんだ。東京なんかに出て行くんじゃねえぞ。おまえらのその手で故郷をしっかりと守るんだ」

髪を金色や茶髪に染め、特注の学ラン・ボンタンズボン、ロング・スカート。マニュキア・ピアス、学内でタバコを吸っている高校では、「おまえらなァー、そんな服装で満足しているのか。中途半端にしか見えないぞ。もっと徹底的にやったらどうだ。どうせなら、金ラメの入った学ランとかロングスカートを作って着こなしてみろや」、「処で、修学旅行は東京に行くのか。おまえら、そんな格好で東京へ行ったらカッコ悪いぞ。珍しがられて写真をバシバシ撮られてな『ダサイ高校生ファッション』なんて書かれて、雑誌に載せられるかもな。まあ、モテないぞ。それはオレが保証するよ」、「どうした、そんなに気になるのか。よろしい、オレがモテる方法を教えてやる。いいかおまえら、学ランを着るならそれでいい。親からカネをせびって、わざわざダサイ特注服なんか作らなくていい。普通の学生服をビシッと着てりゃいいんだ。女子もな、ロングスカートなんかはかなくていい。普通のセーラー服をそのまま着る。それが一番モテるんだ」

この後者の高校の校長先生からは、公演一ヵ月後に手紙が届き、わが校には奇妙な格好をする生徒は殆ど居なくなりました。髪は黒く染め直し、普通の学生服を着るようになりました。何年間も指導をしてきてダメだったものが、アッという間に変わってしまったのです。本当に有難うございました。と。

寺内が、学校の関係者や親に発信したメッセージもあるのでここに書き記しておきます。
十代の若者の非行、犯罪が社会問題になっている。確かに、その事自体は問題だが、少年たちは非行に走りたくて、犯罪を犯したくて生まれてきたわけではない。
ハイスクール・コンサートで、僕は、およそ百万人の十代の若者たちに会ってきた。
彼らは、みんな素直でいい子である。そんな子供たちの性格をガラリと変えさせてしまうのは、大人であり、親だと思う。
「いつの時代も大人はまちがえる」たくさんの若者に会って、僕はそんな教訓を得た。

ハイスクール・コンサートの公式の第1回目のコンサートは、茨城県の総和工業高校で、以来、今日まで、1千数百校の高校でコンサートを行なってきました。

「エレキは僕が作った楽器だから責任を持つ、そして僕は、エレキは素晴らしいものであると信じている。僕はエレキがすべての大人たちに認められるまで闘い続けていくだろう」

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エレキの神様寺内タケシの第9弾 大赤字を覚悟の上、白血病の少女救済のためソ連ツアー敢行

『苦しくもあり、楽しくもあり、過ぎし日を、エレキと共に、ひたむきに歩く、エレキ万歳!』
テリー・ピック


本文に入る前に学習です。
寺内はソ連に行くと決め、ソ連大使館に赴き交渉するが話も聴いてもらえず激怒し、国家元首のブレジネフ書記長に直訴の手紙を送っているほど行動力があるのです。

'76年、ソ連のエリーナという少女から寺内の処へ1通の手紙が届きました。
その手紙には、私は、父からテラウチのレコードを貰いました。あなたのレコードを聴くと、行ったこともない国なのに、なぜか日本の匂いを感じて、とても感激しました。

レコードではなく、あなたの演奏をソ連で聴いてみたい。ぜひ、ソ連にきてください。と綴ってありました。

それが、2通、3通と度重なり、ついには彼女の父親からも手紙が届きます。
その手紙の内容は、8歳になる娘は白血病で余命幾ばくもない事、娘がテラウチの大ファンであり是非、ソ連でコンサートを開催して欲しいと願っている事。ソ連にはいろいろな国のアーティストが公演を行なっているのに、なぜテラウチは来ないのかと娘が悲しんでいる事。難しいとは思うが、ぜひソ連に来て欲しいという事が切々と綴られていました。

この父親からの手紙を読んだ寺内は、ソ連公演を決意(事務所のスタッフに「よし、ソ連に行くぞ。エリーナに生の演奏を聴かせてやろうじゃないか!」)し、早速、日本政府及びソ連大使館と交渉します。
しかし、答えは何れもノーでした。話が急に進展したのは、ソ連から、ゴスコン・コンツェルト(国立コンサート委員会)の一行が、ブルージーンズのコンサートを視察に訪れ、感激し、是非ソ連に招聘したいと申し出てくれたことにより実現の運びとなりました。

国情の違いなどにより3千万円の赤字(共産圏のため、ギャラは低くしかもドルとルーブルの半々による支払い、年内のスケジュールのドタキャン、ブルージーンズのコンサート・チケットの払い戻し、楽器の電圧変換機を特注)を覚悟でソ連公演を実現させました。
この時に、「寺内企画倒産」の記事がデカデカと書かれていました。

機材の総重量5トンとスタッフ・メンバー16人を引き連れて寺内は、8月下旬に横浜港から2泊3日の船旅でナホトカに向かい、ナホトカからハバロフスクまで汽車、ハバロフスクから飛行機でノボシビルスクに到着。
エリーナと涙の対面(ブロマイドでしか見た事のないテラウチを目の前にして満面の笑みをたたえ、やがて大粒の涙を流しました)をし、エリーナを会場に招待し生の演奏を両親と一緒に聴いてもらいました。

コンサート・チケットにはプレミアムが付くほどの大盛況で、コンサート・ツアー(38回)は順調に進んでいきました。

処が、このツアーの最中に、ソ連の戦闘機ミグ25が日本に不時着陸、飛行機がアメリカに引き渡されるという「ミグ事件」が勃発します。
ソ連では、反日感情が高まり、寺内の身辺は不穏な空気に包まれ、コメントを求めるマスコミが群がってきました。しかし、寺内は硬く口を閉ざし、ついにツアー先のエレバン・スタジアムでこう語ったのです。

「私達は、一人の白血病の少女を見舞うため、ここにやって来た。私達は、日本人の代表として、友好を求めるためにやって来た。私達は、みんなを信じ平和を信じます」と。
そして、寺内がステージからVサインを送り出すと、1万8千人の観客は一斉に立ち上がり歓声をあげVサインを掲げたのです。警備の軍隊も、寺内を追い回していたマスコミの記者たちも立ち上がりVサインを掲げました。
この時、音楽は国境を超え一つ(音楽には国境はなく、音楽には言葉の違う人々にも感動を与える事ができる)になったのです。

このソ連公演では、52日間、観客42万人で大成功。その後ソ連公演を、'81年には第2回目(45日間、観客130万人)で、日本国際連合協会よりピース・メダル受賞、'84年には第3回目(43日間、観客57万人)で、文化功労賞と音楽功労賞を受賞をしています。この'84年には、ブラジル・アルゼンチン公演も行なっています。

前後しますが、'81年の国際障害者年協賛「虹のコンサート」で、全国50箇所縦断のチャリティー・ツアーも実施しています。ここでも、ボランティア。

因みに、受賞といえば、寺内は、'00年4月に「第8回・スポニチ文化芸術大賞」を受賞しています。
受賞の理由は「千校に及ぶハイスクール・コンサートの偉業と若者たちを鼓舞激励する『人生の師匠』としての功績に対して」により。

'85年に、つくばで開催された科学万博では総合プロデューサーに就任しその手腕(生家が建築会社など多岐に渡り、父親譲りの血統がそうさせるのでしょうか)を発揮します。
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エレキの神様寺内タケシの第10弾 つくば万博から災害対策車の開発まで、事業家としての活動

『苦しくもあり、楽しくもあり、過ぎし日を、エレキと共に、ひたむきに歩く、エレキ万歳!』
テリー・ピック


本文に入る前に学習です。茨城県筑波研究学園都市の誕生の切っ掛けを創ったのは、寺内の父、龍太郎(土浦市議会議長)が敷地2百万坪を国と県に寄付して研究学園都市が誕生。

'85年に茨城県筑波研究学園都市を中心に開催された国際科学技術博覧会(つくば万博)が開催される4年前に寺内は、茨城県知事から要請されて、万博のグランド・プロデューサーに就任しました。

このグランド・フロデューサー寺内の仕事の内容は、万博の基本構想から会場のレイアウト、テーマ・ソングの作曲、万博に参加する予定の国でのコンサート・ツアー、常磐高速道路・一般道路の整備、宿泊施設、鉄道から会場周辺の上下水道の整備、VIPの接遇、跡地の再利用など多岐に渡っています。県知事よりこの仕事の対価として、毎月200万円の報酬の提示がありましたが受け取る事を寺内が辞退。ここでも、ボランティアをしています。

推進会議の席で、寺内は茨城県知事、県内の市町村長の前で、プロデューサーとして説明をした際(上席にて)に、寺内の父の龍太郎(土浦市議会議長)は末席に座って寺内の話を聴いていたということです。
そして、その翌日に龍太郎は突然、市議会に辞表を提出し、政治家を引退してしまいました。この時の事を寺内はこう語っていす。

「おまえの御託を聞くようになったんだ。オレはもう歳だということがわかったよ」と。
父は、僕の下座に座ることなどプライドが許さなかったのだと思っている。言い換えると、それは、初めて僕のことを認めてくれた裏返しでもあったと思う。そう思うと胸が熱くなる。父は潔い人でした。

この寺内の父は、つくば万博の開催中の8月に永眠しました。

そして、寺内はミュージシャンとしてではなく、事業家としてもその手腕を発揮しています。
父親が多岐に渡って事業を行なっていましたから「蛙の子はやはり蛙」でした。
横浜市内に十階建てのマンションを大手ゼネコンと共同して幾つもの住宅を造ってきています。細かな設計図等は専門家に任せていましたが、寺内自ら基本設計等のアイデアやラフ図面の製作を手がけています。
また、寺内は母校の関東学院大学の土木工学と土木建築の講師として講座も受け持っています。

更に、今では東京の夏の風物詩しとなっている、神宮外苑の絵画館前広場で開催される「日本の祭り=日本各地の有名な祭りが一堂に会する大イベント」の発案者は寺内です。
東京に住んでいる大勢の地方出身者が故郷を離れて、仕事の関係で中々帰省できず(子供の頃、お囃子の音に誘われて両親や祖父母、友達等と連れだって楽しんだ故郷の祭り)、子供や孫にこれが自分が育った故郷の祭りだと教えてあげる事もできない。ならば、故郷の「匂い」を少しでも感じとってもらえればと寺内が、TBSテレビの社長に話しを持ち掛けこのイベントが実現しました。

また寺内は、'88年10月16日には、栃木県小山市郊外の田んぼの中で、ブルージーンズが田園コンサートを開き「名月赤城山」等、数十曲を演奏しました。寺内は「東京ドームが何だ。日本武道館が何だ。ここは最高の舞台だ」と挨拶し、約3千人の聴衆から喝采を浴びています。

こんな事もありました。'97年5月に寺内が設計した災害対策車「非常災害用音響本部車」を横浜市のトヨタテクノクラフト横浜工場で披露しました。
この車輌は'95年1月17日の寺内の誕生日(56回目の)に起こった阪神・淡路大震災の反省からパニック現場への誘導を適切にしたいという、市町村関係者の声を元にトヨタテクノクラフト側と寺内が共同開発した4トンの4輪駆動車です。
音響、照明装置付きのポールが高さ8m.まで伸縮できるのが主な特徴で、寺内は「救助犬がガレキの下の人を見つけても連絡が出来ないことにジレンマを感じていた。
一刻も早く尊い生命を救うことが使命」と2年がかりで完成させました。開発費用として2億5千万円を投資しています。

嬉しいニュースもあります。寺内のギター人生のサクセス・ストリーがニューヨークのスミソニアン博物館に、エレキ・ギター「ブルージーンズ・カスタム」と共に展示されるそうです。

寺内のギター・ストラップを二十数年間に渡って造られている川島正治が経営している京都のスタジオマーシャル、サイトのリンクを貼っておきます。
スタジオマーシャル

寺内タケシについて10日間に渡り書いてきましたが明日でファイナルとします。ラストは、'02年2月に最愛の息子の「章=ブルージーンズのボーカリスト」が起こした事件で父、寺内が入院・手術・退院後に行なった涙の謝罪会見を綴ってみます。
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エレキの神様寺内タケシの第11弾 息子の起こした事件の謝罪・退院報告記者会見

『苦しくもあり、楽しくもあり、過ぎし日を、エレキと共に、ひたむきに歩く、エレキ万歳!』
テリー・ピック


'02年に寺内は大病を患い入院→手術を行ないました。寺内にとっては二回目の大きな病との戦いでした。病名は「S字結腸癌」癌が発覚して直ぐさま国立群馬大学医学部付属病院に入院しました。病院では、スペシャル・チームを編成して、最新医療技術を駆使して、2月24日に癌の手術を受け、S字結腸を約15cm.程除去ました。この後の検査で癌の再発や転移については、各細胞一つひとつを細かく検査した上で全く心配ない、との医師団からお墨つきをもらいました。術後の驚異の回復力は、まさに神が神の復活をみせてくれたようでした。

寺内がこの大病で生死を境をさ迷っている時に、息子の章が逮捕されるという事件が起こりました。
'02年2月18日、覚醒剤取締法違反と大麻取締法違反で神奈川県警薬物対策課と同県警戸部署に逮捕されました。
以下は、マスコミ発表の記事から引用します。
調べによると、人気ギタリスト・寺内タケシの長男でバンドボーカリスト寺内 章容疑者は13日、横浜市南区井土ヶ谷下町の路上に駐車した乗用車内で友人のフォークリフト運転手から覚醒剤約0.1グラム(末端価格約2500円相当)を無償で譲り受けた。18日には父タケシが大腸がん治療のため入院中の群馬県前橋市の群馬大学付属病院の駐車場に止めた乗用車内で覚醒剤0.04グラム(同約1000円相当)と乾燥大麻0.01グラムを所持していた。

章が逮捕されたのは、寺内の手術から3日目でした。
そして、2月27日に退院し、3月3日に緊急の謝罪会見をキング・レーコードで行ないました。

寺内は、腹にさらしを巻いた羽織袴で登場。「申し訳ありません」と何度も頭を下げた。「手術で大腸を15cm.切った。もともと腸が短かったみたいで、おなかの中で腸が浮いている状態になっているので、さらしを巻いてます。僕らしく、洋服を着たかったんですが…」と述べた後に謝罪会見が始まりました。

章は、「手術の時も、次の日も付き添ってくれた。あの日も午後3時頃に来るはずだったが、なかなか来ないのでおかしいなと。夜になってレコード会社から連絡があった。

動けない状態だったが、酸素マスクなど全部とってもらった。ショックだった」と。

「親として情けないが(覚醒剤などの事は)全く分からなかった。通常の親子関係よりも、強い絆があったと思っていたのに・・・。愛情をかけ一生懸命育ててきた。甘やかしたつもりはない」と言い切り、寺内タケシとブルージーンズのメンバーである章の逮捕は「活動に大きな影響が出てくる」とも言明し、通算1100校を超えたライフワークのハイスクール・コンサートは、事件後、計15校からキャンセルの連絡があったという報告もしました。

「学校関係のことをやってる身では批判も出てくると思う。ただ、学生たちには事件のことも説明したい。要請があれば続けたい」と強調しました。38歳の息子に代わっての謝罪会見に「疑問も感じたが、親の責任は一生続くもの。ただ、小唄の家元だった母が言っていた“芸道一代”の言葉が身に染みて分かった」と肩を落とし涙を浮かべました。

時折苦しそうに腹を押さえ「息子をバンドから外す。今後2度と同じステージに立つことはない」と明言をします。
今後についてはと聴かれたときに「面会?行きません。厳しく法の裁きを受けて、刑に服し、きれいになって社会復帰してもらいたい」と毅然と言い切りました。

最後に寺内自身の術後についての質問では、息子が逮捕されたショックが、腹の傷を癒やしてくれないのでしょうが。心身ともに苦しい会見に「声を出すということが、こんなにきついことだと思わなかった」と、エレキの神様から初めて公式の場で弱気な言葉が漏れたのが心象的でした。

病床の身でありながらいち早く関係各所やマスコミ各社に対し、謝罪声明文を送り、退院後すぐ、絶対安静療養中にも拘わらず、看護婦を別室に控えさせてまで謝罪・退院報告記者会見を執り行った、父親としての寺内の一連の対処やケジメの取り方には頭が下がります。本当にテリーは素晴らしい男性なんです。

その後、寺内タケシの長男に懲役1年6月、執行猶予4年の判決が下りました。
以下は、マスコミ発表の記事から引用します。注意:年齢は当時のまま
ギタリストの寺内タケシ(63)の長男で、覚せい剤取締法違反(使用など)の罪に問われた横浜市西区の会社役員・寺内 章被告(39)に横浜地裁は懲役1年6月、執行猶予4年(求刑懲役1年6月)を言い渡した。章被告は2月に逮捕されるまで「寺内タケシとブルージーンズ」に所属していた。
判決理由で衣笠和彦裁判官は「被告は友人の勧めで、音楽に集中できると覚せい剤を使用した。父に申し訳ないと反省の態度を見せている」と述べた。
検察側は論告で「著名なバンドの一員としてその行動が社会的に耳目を集める立場で、社会に与えた衝撃は大きい」と指摘した。

寺内が語ったように「章が刑に服し、きれいになって社会復帰してもらいたい」そして、社会からも父からも立派になったとお墨つきとお許しが出たら、ブルージーンズのボーカリストとしていつの日にか、彼が歌っている姿を僕は見たいと願っています。

寺内は、この年の4月11日に神奈川県民ホールで、ブルージーンズと共に、不死鳥テリー!蘇る!コンサートを行なっています。

最後に、寺内の名言で僕が最高に気に入っているのを2つ書いておきます。
「苦しくもあり、楽しくもあり、過ぎし日を、エレキと共に、ひたむきに歩く、エレキ万歳!」
「ギターを持って44年、未だにギターの入り口すらわかりません。一つだけわかったことは、ギターは弾かなきゃ音がでないということです」

寺内タケシオフィシャルサイト
寺内タケシオフィシャルサイト

本日を以て、エレキの神様寺内タケシ・ストーリを終了します。この後ブルージーンズの経年メンバー変遷と共にフリー・ページに近々移動させる予定です。
尚、画像のエレキは、YAMAHA Terry & Blue Jeans Custom です。受注生産で価格は680000円です。
テリー010


最後に、音源をリンクしておきます。
夜空の星
レッツ・ゴー運命
津軽じょんがら節
ノーエ節
佐渡おけさ
ペルシャの市場にて
元禄花見踊り
娘道成寺




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