【NBA】コラム ~1998年組で最も輝いた司令塔たち
1998年にバンクーバーで行われたNBAドラフト。華の84年組と呼ばれた、マイケル・ジョーダン、チャールズ・バークレー、ジョン・ストックトンなどを排出した1984年のそれや、まだ記憶に新しい、レブロン・ジェームス、カーメロ・アンソニー、クリス・ボッシュ、ドウェイン・ウェイドを排出した2003年のものと比べるとやはり見劣りしてしまうものの、この年に行われたNBAドラフトも素晴らしいタレントを輩出した。その代表的な選手は、ビンス・カーター、アントワン・ジェイミソン、ダーク・ノビツキー、ポール・ピアースといった選手たち。それぞれがルーキーの頃からフランチャイズ・プレイヤーとして輝いた、NBAの歴史の中でも、『当たり年』に分類されるドラフトとなった。その中に、世界最高峰のリーグで傑出した才能を発揮したポイントガードが二人いる。マイク・ビビーとジェイソン・ウィリアムスの二人だ。マイク・ビビーは、アリゾナ大出身の185cmのシュート力のある選手で、在学した二年間通算で、FG%が46%、平均得点が15.4点という実績を抱えて全体2位指名をバンクーバー・グリズリーズ(現メンフィス・グリズリーズ)に入団した。一方、ジェイソン・ウィリアムスは、フロリダ大出身で、ビビーと同じ185cmの選手。堅実なポイントガードのビビーとは対照的に、ショーマンシップに長けた選手で、誰もが想像しないプレーで観客を沸かすタイプだった。全体7位指名でサクラメント・キングスに入団した。一見両極にあるように見える、タイプが正反対のこの二人が歩んできた道は、お互い抜きには語れないものとなっていく。ドラフトの指名順位を見れば分かるとおり、NBAのスカウト陣からはビビーの方が圧倒的に評価が高かった。当時、創立間もないグリズリーズは、当時エースだったシャリーフ・アブドゥル=ラヒムの相棒に、堅実な司令塔を選んだ。ビビーはその期待に応え、ルーキーシーズンに1試合平均13.2得点、6.5アシストという成績を残した。カーターの爆発的な人気の陰に隠れるような形で新人王を失ったが、素晴らしい成績であることに変わりはない。一方、ホワイト・チョコレートこと、ウィリアムスは、1試合平均12.8得点、6.0アシストという、ビビー同様に素晴らしい成績を残した(共にターンオーバーは2.9!!)。もちろん彼も新人王レースに加わった。この二人がまず最初に比較されたのが、先に述べたドラフトの日。あまりにもタイプが異なるため、比較するのは非常に難しいのだが、NBAに入団した初年に素晴らしい同等の成績を残したことで、二人はより比較されるようになっていった。シュート力、アシスト数、ターンオーバー数、そして、人気。ウィリアムスはそのプレイスタイルから、ターンオーバーが多く、3ポイントシュートを早打ちする傾向にあったのだが、それがチームのスタイルにフィットし、人気もカーターのそれと違わぬ(もしかしたらウィリアムスの方が上だったかもしれないほど)地位を確立した。また、ピート・マラビッチの再来とファンを熱狂させた。ウィリアムスのつけた55番は、ジャージーの売り上げでも上位に位置し、チームもプレイオフに進出。カーター、ビビーがプレイオフに出られなかったこともあり、真の新人王はウィリアムスではないかといった議論まで持ち上がったほどだ。そして、バスケットボールの女神はこの二人を更に近づける。2001年、この二人が絡んだトレードでチームを入れ替わる形となったのだ。プレイオフで上位に駒を進められないキングスは、人気よりも堅実さを求めた。ラヒムとの二枚看板ですらプレイオフに進めないことに業を煮やしたグリズリーズは実績を求めた。それぞれのチームがそれぞれのニーズにあった選手を獲得するというトレードが成立した。その結果、ビビーの加わったキングスは同じカリフォルニア州にあるレイカーズを脅かし続けた。一方グリズリーズは一からチームを作り直す、再建の道を辿り、相変わらずのチームに冷え切ったファンはスタジアムへ足を運ばなくなり、チームはメンフィスに本拠地を移すことになった。このトレードが生んだ答えは、『ビビーの堅実さがウィリアムスの創造性を上回った』といったものだった。2001-02シーズンが終了した時点では。しかし、翌2002-03シーズン。この年にウィリアムスはポイントガードとしての才能を一気に開花させることになる。このシーズンが始まる前、あの往年のプレイヤーでレイカーズのバイス・プレジデントだったジェリー・ウェストがバスケットボール部門社長としてグリズリーズのフロントに加わった。この人事により、「ウェストの指導でウィリアムスのセルフィッシュなプレーは、少しは減るだろう」という冷ややかな目線が送られたのだが、ウィリアムスはこの酷評をプレーで見返すことになる。ターンオーバーを2.2にまで激減させ、アシスト数を8.3にまで急上昇させた。このアシスト数はリーグ2位という特筆すべき成績で、かつアシスト/ターンオーバー比率でもリーグ上位となった。ヒュービー・ブラウンの優れた手腕も手伝い、2004年にはチームを初のプレイオフ進出に導くこととなる。ここで再び二人の上下関係が逆転した。『既に完成形だったビビーと、荒削りで未知数なウィリアムス。』この言葉に比喩されるとおり、ウィリアムスが完成形に近付いたことが、ビビーを上回る結果となった。そして、ウィリアムスは7年間属した、西地区を離れイーストコーストへ。行く先はシャックのいるマイアミ・ヒートだった。移籍シーズンに先発ポイントガードとして、チームの優勝に貢献したウィリアムス。数年前、ウィリアムスがポイントガードを務めるチームが優勝するなど、一体誰が想像しただろうか。大学時代には大麻使用など数々の問題を起こし、チームを混乱させ、才能はあるがそれを勝つバスケットのために使う術を知らなかったJ-Will。その彼が偉業を達成し、揺るぎない地位を築いた、かに見えた。ここでまたバスケットボールの女神が悪戯をするのだ。昨シーズンの2006-07シーズン。故障者も続出したマイアミ・ヒートは、44勝38敗という成績でプレイオフには進出したものの、プレイオフ1回戦で新生シカゴ・ブルズにスウィープされてしまう。シャック限界説、ウェイドの故障など不運に見舞われたチームで、批判の的はやはりウィリアムスだった。ポイントガードというポジション柄、仕方のないことではあるものの、「ウィリアムスでは勝ち続けられない」と批判された。そしてこの度、三度二人が近付くことになるかもしれない。マイアミ・ヒートが、キングスからビビーを獲得すると交換に、ウィリアムスを差し出すというオファーをしたのだ。ウィリアムスにとっては、古巣へ戻ることになるが、当時のメンバーである、ブラディ・ディバッツ、クリス・ウェバーなど当時の主力選手はもういない。変わりにいる選手は、ラヒム、ブラッド・ミラー、ロン・アーテストといった面々。今回このトレードが成立した場合、どちらのチームに女神は微笑むのか、そしてどちらの司令塔に光をかざすのか。しかし、バスケットボールの女神は気紛れだ。もしかしたらどちらにも微笑まず、どちらにも光を与えることはないのかもしれない。今オフシーン、ボストン・セルティックの反則とも言える補強劇。この陰に隠れて、なお展開されていく裏話は尽きない。