テーマ:好きなクラシック(2299)
カテゴリ:クラシック
大好きなベートーヴェンのことを、あれこれ書き付けているのですが、読み返してみると、まるでイッチョマエの解説者のような文言がチラホラして、赤面すること一切ならず、さりとて一体どんな結論へ向かっているのか、書いている本人がだんだん混乱して、話の進行を妨げます。
そもそも手垢に汚れた私のベートーヴェンのライブラリーを、もういちど更地に戻して新鮮な気分で聴いてみたい、ということが目的ではありました。私が以前から漠然と感じていたことがらが、はたしてまともな中味であるのかどうか、こうして文章にすれば多少なりと確かめることができると思って書き始めたのですが、実際に書いていると、どうしてもそれなりの知識が必要になり、そこをおろそかにすると、たちまちウソ(書くに値しないもの、読むに耐えないもの)になる。 かといって、自分なり言葉で再構成しておかないと、この江戸時代の作曲家は永遠に私の手元から離れて、古びた土蔵の骨董品になりかねず、どうしたものか思案してしまいます(なんちゃって!)。 囲碁の趙治勲十段「25世本因坊」の持論は「定石は悪手」、数百年の囲碁の歴史で編み出された「定石」は、囲碁のある局面では、白黒の両者にとって妥協できる手順がいくつかあり、初心者には「定石」をマスターすることが上達のカギとなっているのですが、趙十段はこれに疑問を呈します。両者にとって五分五分の手とは悪手に他ならず、もっと自分にとって最善手があるのではないか、というわけで本因坊手合いの場でも、誰が見ても疑問の余地のないはずの手筋を、もう一度初手から長々と見つめなおす。 というわけで、ときに誰が見ても絶対生きられないはずの局面で、まんまと凌いでしまうというのが、この人の凄味で、本因坊戦10連覇をはじめ、数々のタイトル戦の獲得は史上最強の棋士といっていいでしょう。 趙さんにあやかるわけではもちろんありませんが、成しうるならばベートーヴェンをもう一度、初手から(更地から)自分なりに、見つめなおしてみたいというのが、ひそかな願いなのですが、はたして ――。 旋律や和声が次々と泉のように湧き出てきて、留まるところを知らないというのは、シューベルトにおいて典型的にみられるので、彼の交響曲第8番ハ長調「ザ・グレート」(1825?)など、美しい旋律と和声が滞ることなく延々と続くので、指揮者によっては、かえって冗漫に聴こえるときがあります。 このあたり、なかなか微妙なところで、昔三島由紀夫が「文章読本」でしたか「作家が興にのって書いた文章は、あとで読んでみると冗漫にみえ、呻吟した文章は逆にスピード感がある」とか言っていましたが、湧き出る旋律をとめどなく書き連ねれば、当然聴く側にとっては退屈な部分も生じるのです(「未完成」にも多少あります)。 ベートーヴェンが極めて簡潔なモティーフを呻吟して展開した結果は、交響曲第5番や第7番の恐るべきスピード感となって現れました。私はこれはベートーヴェンがピアノの即興演奏の名手であったこと、難聴に陥ったこととやはり無関係ではなかったと思えるのです。 かつてはモーツァルトやシューベルトが生まれながらの天才で、ベートーヴェンは努力の人と云われましたが、こうしたロマンティックな区分けでは、本当のベートーヴェンの音楽は見えてこないでしょう。「英雄」や「田園」を聴けば、彼が多様な湧き出る楽想を持っていたことは明らかです。 ― つづく ― お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.04.23 11:29:09
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