テーマ:好きなクラシック(2299)
カテゴリ:クラシック
はじめに申し上げたように、私はこの第五番と言わず、近現代の作曲家の中でショスタコーヴィッチが苦手なのです。独自の濃密な音楽世界を持ちながら、本人の意思とは関係のないところで、その作品を意識せざるを得ないというか、聴かざるを得ないというのが、何としてもしんどい。こういうしんどさと言うのは、例えば他のマーラーとかシベリウスとかバルトークなどを聴くときには、絶対無いものです。
日本では敗戦後、なぜか「左翼的」政治思潮が教育現場では長いこと優勢で、実際私の通っていた小中学校でも、「安保反対!」とか「勤務評定反対!」(古いですね)と叫んでデモごっこをするのは、子供の間では最もイケてる遊びの一つでした。つまりそうした遊びをしていても、誰も止めないという雰囲気がずうっとあったのです。というわけかどうか知りませんが、日本ではこうした音楽を取り上げること自体が有する政治性に対する抵抗感は、一部のヨーロッパ通の音楽専門家を除いて、あまり無かったように思います。 そんなこんなで、当時ソ連からの音楽家の来日は、ことのほか多かったような気がするし、またその評価も党派性の強い新聞を初めとして、ずいぶん高かったような記憶があります。そしてそれらの評価を最高のかたちで括るのが、ムラヴィンスキー指揮レニングラードフィルのショスタコーヴィッチでありました。いわばこの曲の祖型とも言うべき取り合わせでロシア的情念をあられもなく演奏されると、誰も話が出来なくなってただただ恐れ入るというか、音楽評論家の皆さんがいっせいに口をつぐんでしまって、「実際のところ、どうなの?」という事態になったのです。 そのあたりを政治性抜きにして、言わば「音楽だけを聴けよ」という口ぶりで演奏し、なおかつ自身の十八番の一つにしていたのが、他ならぬL・バーンスタインで、当時のアメリカのこれまた手勢のニューヨークフィルでやるということ自体、逆にかなりな政治的意味合いを込めていたでしょう。しかし当時の日本にあってバーンスタインの扱いというのは、音楽評論家の間では彼がアメリカ人であるということだけで(そしてたぶんウェストサイド・ストーリーの作曲家ということで)、ヨーロッパの伝統からかけ離れた似非クラシックというような、ずいぶん冷淡な扱いだったような気がします。 日本では彼をどう評価するかということは、ショスタコーヴィッチを認めるか否かと同じレベルの政治的立ち位置の判断になっていたのでした。その評価が一変したのは、彼がウィーンフィルとやった一連の歴史的な演奏会でしたね。ヨーロッパの伝統にとにかく厳密に沿って評価を下すというのが、「政治的に正しい」という日本の音楽専門家にとって、これはなかなか辛いことであったわけです(たぶん)。 同じような事柄が、この第五番についてもずうっと付いてまわったわけで、この曲をどう評価するかで、何となくその人の音楽趣味のレベルを測ってしまうという、はなはだ退屈な状況がずうっとあったのでした(他ならぬ私がそうでした。ムラヴィンスキーやバーンスタインを誉めそやす友達をつかまえては、文句をつけるということを繰り返していたのです)。 さて時代も変わり、ソ連邦が崩壊するに及んで、多少この曲に対する評価にも冷静な目線が出て来たかというと、そもそも日本ではそうした歴史的経緯はあまり意識されていないので、何となくズルズル来ている感じがしないでもない。もともと日本では「音楽には政治性とか党派性など関係ない、良いものは良い、悪いものは悪い、ただそれだけで充分」といった感じがあります。逆に言えば、「音楽にそんな力があるわけがない」とタカを括ったところもあるのではないか? 「音楽を楽しむ」という仕方はまさしく自由で、上のような立ち位置ももちろんOK。今どきそれをダメなどと野暮なことを言う人はいません。しかし、かつて例えばシベリウスの交響詩「フィンランディア」が、フィンランド独立運動の血みどろの象徴足り得たように、この「革命」もそのソ連共産主義革命の「召命」を受けて喧伝されてきたことも事実なのです。で、同じようにベートーヴェンがナポレオンと同時代の人で、その市民革命的気分の中で数多の音楽を生み出したのも事実であって、彼は時代から隔絶してまるっきり中空に浮遊しながら作曲を行ったわけではない。 要はいずれにせよ、必ずこうした歴史的文脈を負って生み出されて来た音楽を、今どきの世で演奏し聴くとはどういう意味を持つのか?それぞれの曲が発する問いかけ(「謎かけ」といっても好いかもしれません、マーラーを聴いてごらんなさい。彼の音楽は今だ以って「謎かけ」だらけなので、ますます盛んに演奏されるのでしょう)に応えるのは今の我々であって、もちろんすでに過去の人であって、蘇るはずもないベートーヴェンでもショスタコーヴィッチでもないのです。同じように彼らの時代もまた二度と戻って来ることはありません。 ベルリンに限らずヨーロッパでクラシックを演奏し聴くということには、自分たち世界の問直しという意味合いが常にあると思う。ロシア人でもなくヨーロッパ人でもない指揮者によって、今の世にあのショスタコーヴィッチがどう聴こえて来るのか?これは逆にヨーロッパ人にとって、北の永遠の超大国「ロシアとは何か?」というのを、冷静に問い直す機会でもあるわけです。 ― つづく ― お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.07.01 11:06:30
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