テーマ:好きなクラシック(2282)
カテゴリ:エレクトーンの日
歌唱の始まり
しかし、ここまで来てしまうと、楽曲の形式がどうのこうのというはるか前に、そもそも音楽とはどのようにして生まれて来たのだろうというところまで、本当は立ち戻らざるを得なくなって来るでしょう。となると、それこそ世界の民俗音楽にまで入り込んで、思いをはせるという仕儀になりかねないのですが、もちろん素人の私には、そんな忍耐も知力もないので、もっぱら妄想だけを膨らませるということになってしまいます。 とはいえ、そういうまあどうでもいいような手間も、もともとのテーマを外さないかぎりは、まったくムダというわけではないでしょう。 というわけで、しばらくしんきくさい話を続けます。 NETで一応この種のことを扱ったものを見てみましたが、なかなか腑に落ちません。中には「言葉より音楽が先に発生した」みたいな論もあるのですが、そりゃあリズムは人間が言葉を発するはるか以前からあったでしょうが、だからといって言葉より音楽が先だと断じられても困る。早い話、それならネコやヒマワリにも音楽が在ることになってしまうのではないか。どうもこのあたり、あまりにも当たり前すぎる事柄を扱うとき、それが当たり前すぎて、かえって妙な話になってしまうようです。 で、他のめぼしい論考はと言えば、これまたいきなり「音楽の三要素」や「音階論」から話を始めたりするので、私たちの音楽観というのが、知らずいかに「西洋音楽」の楽理楽典に浸透されているか、ということをあらためて知らされることになります。これは何も西欧音楽の否定をしているのではなくて、今現在の私たちは、「そのほかの語法で『音楽』を語ることが出来なくなっている」世界にいるということに他なりません。これって、ある意味、世界の言語が「英語」で統一されてしまうのと同じような状態を指すので、言語よりはるかに多様性に富んでいるであろう音楽の世界を論じるには、ちょっと寂しい状況なのではないかしらん。 私は音楽は「すぐれて人間的な行為」だと思っているので、「音楽とは何か」を問うということは、「人間とは何か」を問うことと同義だと思っています。で、人間とその他の生き物を分かつものは何かと言えば、それはたぶん「時間」の意識だろう、というのが私の漠然とした推測です。すべての生き物の中で人間だけが、我が身が「逃れようのない時間の流れに投げ込まれている」ことを知っている存在なのではあるまいか? では「音楽はどのように発生したのか?」という命題に対して、私の場合、ごく気まま妄想してしまうのは、例の紫式部が「源氏物語」(蛍の帖)で光源氏に語らせた物語論なのです。 ―よきもあしきも、世に経る人の有様の、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしきふしぶしを、心にこめがたくて、言ひおきはじめたるなり ― (善きにつけ悪しきにつけ、この世に生きる人の出来事で、見るに飽かせず、聞き捨てにも出来なくて、後の世まで語り伝えたいような事柄を、我が心一つに収め難くて、語り置き始めたのでしょう ) なぜ「心にこめがたくて、言ひおきはじめた」のかと言えば、我が身が時間の流れに逃れがたく投げ込まれていて、いずれ必ず消え去ってしまう存在であることを、多少仏教の影響があるとしても、当代の貴族社会はよく知っていたからでしょう。 というわけで音楽もまた、この世のさまざまな事象に遭遇して、大いに動かされた気分を、人にも伝えておきたいと、わが身一つの「心にこめがたくて、言ひおきはじめた」のが最初だったのではないか?とすれば、音楽は「高揚した言葉」の発声から始まったのではないか、と私は妄想するのです。 「高揚した言葉」とは、わが身に生じた常ならぬ気分を、尋常ではない発語のしかたで発声することを言うので、それは通常とは異なる「抑揚」と「リズム」と「身体動作」をともなったでしょう。こういう仕方で発せられる「言葉」は、日常語とは異なる。韻文とは、例えば詩歌のように韻を踏んだリズムで発せられる言葉ですが、詩と歌謡が完全に分離している今どきと違い、かつては詩歌と歌唱は一体であったのです。 このように「歌唱」とは、言葉に常ならぬ抑揚をつけて発声すること(推測ですよ)であるとすれば、器楽とはおそらく「歌唱」に付随する形で生まれて来たのであって、それは「高揚した言葉」をさらに増幅させるものとして現れたのではないか?民俗音楽の歌唱が、しばしばドラムとかステップとか、要は身体の動きと一体となって奏されるのは、そのあたりの消息を示しています。 さて、わが身一つの「心にこめがたくて、言ひおく」ために、何とかしてその気分を人にも伝えたい、共有したい。なしうるならば、空間的にも時間的も出来るだけあまねく、この高揚を世界に届けたいと願ったとき、人はまずどのように「歌唱」しようとしたのでしょうか? 私はそれはたぶん、同じ抑揚リズムの「反復」から、始まったのだろうと推測するのです。読経とかインドネシアのガメラン音楽などがそうであるように、「反復」は「気分の高揚」を共有する最も素朴な手段だったのではないか? とはいえ、反復が同じ「言葉」の繰り返しとなって延々と続くとなると、くたびれてしまうのは当たり前だし、だいいちもっと「多様な気分」を伝えたいと思うのは、人の心でしょう。同じフレーズ、リズムにさまざまな言葉を乗せて歌うというのは、たぶんそういうふうにして現れて来たのではないか。民謡や数え歌は、一つのまとまったフレーズに、第一番、第二番⠒というふうに歌詞を繰り返し延々と乗せていくでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.06.19 11:32:39
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