サリエリの独り言日記

2019/07/23(火)00:05

エレクトーンというガラパゴス 16.

エレクトーンの日(40)

ドメスティックな「私」  「未完成」の冒頭に現れる、有名な低音のモティーフは第一主題ではなく、この曲の主調がB Minor(ロ短調)とあるとおり、曲全体の厳粛な気分を予告するもので、展開部ではこのモティーフが大きく扱われてますね。しかしこうした重厚な響きを、直截に彼の人生的な深刻さと捉えるのは早計で、素顔の彼はウィーンの街で数多くの友人の助けを借りながら、若者らしいボヘミアン生活を送っていたのです。  とすれば、ここに表現された深刻な気分というのは、たぶん彼が畏敬してやまなかったベートーヴェンのような、堂々たる交響楽を志向したからではないか?となると、この第一楽章、あまりガッチリ演奏されると、かえって生身の彼らしくなくなるという仕儀になります。クリュイタンスの演奏は、そのあたりじゅうぶんしなやかに、むしろ若者の哀感を感じさせる歌わせ方をしていて、私は好きです。  それにしても、ベートーヴェンと並んでロマン派の創始とされるシューベルト。じつは形式的には、ごく古典的な枠組みを守っていて、決して革新的とはいえない。むしろベートーヴェンのほうが形式については、はるかに挑戦的だったでしょう(何しろ、交響曲に合唱をくっつけたりしたのですから)?であるにもかかわらず、私たちは彼の音楽に溢れるばかりの感情の表出を感じる。この曲は二十五歳ごろに書かれているのです。  そうした気分は「未完成」の第二楽章に至って、より鮮明になって来ますね。  第一主題の憧憬に満ちたモティーフと、何やら不安を感じさせる第二主題の対照が見事で、こうした未来への希望と不安、繊細で移ろいやすい気分というのは、芸術的な青春そのものの音楽と言っていいでしょう。とくに第二主題の主旋律に伴走する弦の響き(2分20秒あたりからと、再現部8分5秒くらいから)は、コードを複雑に変えながら進行させていて、微妙な気分の揺らぎを表して余りあるでしょう。  しかし、ここまで細やかな表現をしてしまうと、壮大な四楽章編成の交響楽を維持するのは難しかったのではないか。ご存じのとおり、彼は歌曲の名手として名を残したのです。そうしたドメスティックな「私」を表現するのに、歌曲はちょうど良い形態だったのでしょう。    私、思うのですよ。自身の移ろいゆく気持ちを、このように微細に表した響きというのは、確かにそれまでの交響楽にはなかったので、こうした「私」の率直な吐露こそ、ロマン派の精神と言われ、ブルックナーやマーラーに(時に、しどけないほどの仕方で)継承されていったのではないかと。  ベートーヴェンは確かに従来の古典的枠組みを大々的に壊して、「私」を堂々と主張したけど、このような仕方での自己表明はしなかった。このあたり彼はどこまでも「意志」の人で、その響きはさながら国会演説のように、常に「外向き」に発せられた「私」の表明なのです。ベートーヴェンが「内向き」な響きを見せ始めるのは、晩年のピアノソナタや弦楽四重奏あたりからではないかしらん。  おしまいにもう一つ、先の話とようやく結びついて来るのですが、この第二楽章、じつは展開部のないソナタ形式で、第一第二主題の提示とその再現という、あたかも長大な二部形式のようになっているということです。で、それを繋ぐ経過部(4分30秒から5分44秒くらい)は、一分ほどと短いですが第一主題を基調として、とてつもなく美しい響きを聴かせる。まさしくブリッジパッセージの華と言っていい瞬間なのではないかしらん。  ここを聴いていると、またまたシューベルトが歌曲の神様であったことを思い起こさずにいられません。歌曲は先の「天使のくれた奇跡」が、まさしくそうであったように、一連のまとまったフレーズに歌詞を一番二番と重ねていく楽曲形式でしょう。シューベルトのフレーズは(この場合は二つですが)、その提示部だけでじゅうぶん自足していて、これ以上展開のしようがないというか、ここに展開部が入ったら冗長になって、この第二楽章のあえかな印象が、あるいは不鮮明になったかもしれない。彼はそれをやめて簡潔な経過句にすることで、全体の気分が淀まないようにしたのでしょう。これってやっぱり自家薬籠中の歌曲の手法から来たのではないか(異論はあるでしょうが)。  この曲は昔から、未完の名曲ということで「果たして、この一二楽章だけで、楽曲として完結していると言えるか」といった議論が、延々と続けられていました。現に彼自身が三楽章のスケッチも残していて、構想としては全四楽章の壮大な交響曲を目指したらしいのですが、結局のところ途中放棄したらしいというか、この人、わりと途中で中断して別の楽曲に取り掛かるということの多かった人でした。  「完結しているか」と言われれば、もちろん完結していない、だから「未完成」ということになるのですが、シューベルトはあるいは「この曲に盛ろうとした歌心は、もうこれで充分」としたのではないか?今でも指揮者によっては、「未完」の作品としての印象を強調して、この第二楽章を案外あっさりと済ますケースもあるのですが、クリュイタンスの場合はそうしない。コーダのところ、あり得ないほど長く伸ばして、「ここまでで完全に自足している、これで充分だよ」と、聴く者に暗示をかけているかのようなエンディングになってますね。

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