テーマ:好きなクラシック(2294)
カテゴリ:エレクトーンの日
「第九」三昧 1.
コロナコロナでさんざんだった2020年がようやく終わり、21年が明けましたが、何やら首都圏を中心としたオーバーシュートの予感があたりに満ちていて、とてもじゃないが浮かれた気分にはなれません。 さて、皆さんはいかがお過ごしですか。明けまして、おめでとうございます。本年が皆さんにとって、今度こそ良き年でありますように。 第三波が思いのほか大規模で、収束の兆しどころか、感染者数、重傷者数、死者数とも第一波を超える事態になっている現状については、いくつか私なりに思うところがあるのですが、うっとうしいので別段で話するとして、取りあえず年末にあった多少楽しい話題を一つ。 それは例によってyoutubeにUPされた二本の動画のことなのですが、奇しくも二人のエレクトーン奏者が、年末ということで「第九」を演奏されていたのです。日本ではまるで歳時記のように年末になると「第九」がさまざまな形で演奏され、特に昨年はコロナ禍の年の瀬ということで、「歓喜の歌」に希望を見出す人も多かったのかしらん。 私は以前から申し上げるとおり、かなり古さびた(!?)保守的なクラシックファンなので、軽いタッチのポップな「第九」のメロディーが街中に流れてくると、それだけで背筋が凍るというか、腹を立てながら歩くという仕儀となるのですが、このお二人の動画からは、不思議とそういう「いらだち」が沸いてきませんでした。どころか、むしろ爽快感をさえ覚えたものです。 お一人はもちろん826askaさん。年末に自宅からのライブをやっておられて、自作も含めて全九曲、いずれも大熱演でしたが、その中でも冒頭の「リベラ 彼方の光 」、7曲めの「鬼滅の刃」から「鬼殺隊」、そして8曲目の「第九」(1時間32分ぐらいから)が出色の出来映えで、思わず拍手しそうになりました。期間限定なので、いつまで見られるのか分かりませんが、聴いてみてください。 その時書いたコメントを、以下にそのまま記します。 ― 街に出ればポップな軽いノリの「第九」がどこでも流れている時節柄、自称クラシックファンの私としては、ときに怒りさえ覚える今日この頃ですが、askaさんの「第九」はまったく違う。早い話彼女の「第九」はスーパーのBGMにはなじまないでしょう。 それほどに彼女の演奏には切迫性があって、ある種のエレクトーン奏者が本気を出せば、どういう音楽が出現するか、その片鱗を見た気がしました。もちろん細かいことを言えば、「歓喜の歌」のフレーズはやはり原曲に近いリフレインで聴きたいし、コーダはこの数小節前のコーラスが終わるあたりからがベストだと思うのですが(何しろ聴力を失ったベートーヴェンが、どこかから「確かに聞き取った」フレーズなので)。 それでも私はこのaskaさんの挑戦というより、クラシック音楽と対等に渡り合おうとしているかのような、「挑発!?」的な姿勢が大好きです。なぜならスーパーのBGMならクラシックはビクともしないけど、「切迫性」のある響きは間違いなく、「音楽とは何だ」という「問題を提議」するから。 と、回りくどい言い方になりましたが、音楽の「何が人の心にまで届くのか?」というような根本的な問いかけの前では、クラシックもポップも関係ない。ピアノもエレクトーンも、プロもアマも関係ない。すべての楽器、アーティストは、演奏が始まったとたん同じスタンスで、その「問い」にさらされるのです。 askaさんの演奏を聴いていると、その軽々としたフットワークから、そうした根本的な問いかけが驚くほど明晰に見えてくるのね。― と、例によってかなり興奮気味に、駄文を連ねておりますが、正統的なクラシックファンから見れば、ある意味ほとんど「冒瀆的」な響きであっても、晩年のベートーヴェンが「第九」に託した精神の一部は、確かにここに見ることが出来るのです。 私、実は街中のポップな「第九」だけでなく、ホンチャンの演奏会でも「本当に」納得した演奏というのには、数えるほどしか出会ったことがありません。というか、中一の時に聴いたカラヤン、ベルリンフィルの「第九」の衝撃があまりにも大きく、いわば私にとっての「原音」みたいな響きとして残ってしまい、それ以外の「第九」の響きがなかなか受け入れがたい、という時期がずいぶん長く続いたものでした。こういった「原体験」的な音楽の響きというのは、けっこうありますよね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.01.13 10:57:18
コメント(0) | コメントを書く
[エレクトーンの日] カテゴリの最新記事
|
|