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オキナワの中年

オキナワの中年

反近代の文学/三田英彬

2000年『日本近代文学』
 泉鏡花ほど、時代、世代によって評価の変化する作家も珍しいのではないか。三田氏の三〇年にも及ぶ論考を通読して、あらためてその感を強くした。欧米から新たな理論が入ってくるたびに、鏡花はその都度新鮮な驚きを持って読み直されてきたといっても過言ではない。時として鏡花を語りたいのか、新たな理論を紹介したいのか、はっきりしないようなことすらある。
 三田氏の論考はそのような急進的な流れとは一線を画している。時代を反映して時に同時代の文化人類学、あるいはユングの理論が援用されるが、一貫して「わが国における文化原理」を前提に鏡花が読み解かれていく。重要性は誰しも知っておりながら、近年あまり言及されなくなった謡曲との関係など、かえって新鮮な印象すら持った。また所収の「逗子と鏡花」を読むと、具体的に人生をおくった泉鏡太郎なる人物が実在していた、などとごく当たり前のことをもう一度思い起こす。私小説的なタイプの作品がほとんど無い鏡花のような作家の場合、純粋な作品論、もしくはテクスト論が書き継がれる中で、作家はほとんど空虚な存在となっていく。作家という存在を忘却することで、得られるものと、失われるものの収支決算について、もう一度考えなければならないようにも思う。
 その一方で残念なのは、近年発表された論考にも、九〇年以降の研究についての言及がほとんど無いという点である。一過的な現象として、取るに足らないとお考えなら、そういった趣旨でも構わないと思われる。他の作家の研究事情はつまびらかにしないが、鏡花研究ほど世代間の断絶が大きいというのも珍しいのではないか。同じ作家を対象としながら、ほぼ同時代のパラダイムの中だけで議論が行われる。
 一九九九年に本書が発刊された意味は、そこにあるように思われる。



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