623663 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

オキナワの中年

オキナワの中年

11~20

ウルトラマン研究11 6月22日(日)


先行研究のメモ

http://www.law.keio.ac.jp/~hagiwara/ultraindex.html
1,萩原 能久氏

 当初から『ウルトラマン研究序説』系は相手にするつもりはなかったが、あらためて読み直すと、くだらなさが際だつ。「私にとって本当はウルトラマンなんかどうでもよかった」と開き直っているが、怪獣に対する愛情とやらも半端である。例えばジャミラ(マン、第23話「故郷は地球」 )についての言及があるが、ここに書かれている程度のことは、脚本の佐々木守にも監督の実相寺昭雄にもとっくに織り込み済みであり、だからこそ平和なかやぶき屋根の村落を破壊したり、鳩を愛する少年の映像が必要だったのである。

 そもそもジャミラというのは、対仏独立戦争の時、犠牲になったアルジェリアの少女の名前からとったらしい。佐々木らの思い入れは相当に強かったに違いない。それがラストの苦悶の表現につながっている。
http://obuchi.naikaku.com/angriff/log/masscomi/mascom0020.html
 ちなみに佐々木の読んだ種本は『ジャミラよ 朝は近い -アルジェリア少女拷問の記録 』 G.HALIMI、 S.d.BEAUVOIR 手塚伸一訳 集英社 1963 と推定される。
 オタク達はそこまで真剣に見ているのだから、怒るのも無理はないのである。
 ジャミラ(怪獣の方)の墓碑銘は「A JAMILA(1960-1993)」とあり、これは当時夢中になってウルトラマンをみていた少年達と同世代である。私は62年、萩原氏は56年生まれである。ジャミラと同世代の少年達が、ジャミラの没年前後に出したのが、『ウルトラマン研究序説』(1991)なのであった。

 萩原氏は、ウルトラマンをダシに、多分にポリティカルな自説を開陳したいだけなのである。そのためにインテリのいやらしさが、ぷんぷんしてしまう。こうならないよう自戒したい。対象に愛情をもてない研究など、へのようなものである。


2,佐藤健志氏「ウルトラマンの夢と挫折」『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』

 ポリティカルという点では、萩原氏以上であるが、こちらは真剣に書いているので、一蹴するわけには行かない。だんだんに検討していきたい。

(佐藤)「「ウルトラマン」シリーズのライターであった頃、金城は「強い者が弱い者をやっつけるというのは間違っていますよね。僕は、もっと人間の優しさを作品の中で表現したいんですよ」としきりに周囲に語っていたという。このような姿勢で『ウルトラマン』に取り組んでいた金城が、当のウルトラマンをいやいや(あるいは無意識のうちに)博愛主義的な性格にしたわけがない」(p.128)

 この部分は、佐藤氏の論において重要な部分なのだが、ここには大きな誤解がある。佐藤氏が典拠としている向谷進「ウルトラマンの死」『中央公論』88.5の該当部分は以下の通りである。

「このころ(ウルトラセブンの時期、引用者注)になると、哲夫はにわかに酒量を増しながら、しきりにこう訴えた。「強い者が弱い者をやっつける~以下略」

 これは大分感じが違う。佐藤氏がウルトラマンの前提とした言葉は、むしろ金城のウルトラセブンに対する自己否定の言葉なのである。「もっと人間の優しさを作品の中で表現したいんですよ」というのは、現状では出来ていない、ということに他ならない。

 また佐藤氏が重く見る第37話「小さな英雄」(ジェロニモンの回、イデ隊員がすねちゃう)について、「そこで次に金城は、科学特捜隊が彼らなりに地球を守るべく努力してこそはじめて、ウルトラマンも地球を守ってくれるのだという解釈を持ちだして「甘え」を否定しようとした」と述べているが、これは明らかに誤りである。既にあげたとおり、人間が努力してこそウルトラマンが助けてくれるというのは、シリーズ途中に出てきた考えではなく、「ベムラー」企画段階からの、金城の大前提なのである。

(再掲)「面白いことに、隊員たちが、ベムラーの登場を頼みにしている時は姿をみせず、ベムラーのことを忘れ、敵と必死に戦い闘って、破れかけた時に忽然と出現する」(「ウルトラマン島唄」p116)

 以上のように、佐藤氏の論は、ロジックが明快なだけに読んでいると納得してしまうが、細部を詰めていくと、結構ご都合主義的な部分があるように思われる。

追加資料

切通理作『怪獣使いと少年』宝島社文庫 2000,6
 沖縄だけに仕方ないのかもしれないが、遅いぜアマゾン。やっと入手。まだ数ページしか見ていないが、本気度ピカイチ。丁寧に読む必要がある。


ウルトラマン研究12 6月24日(火)


http://www.asahi-net.or.jp/~ug5k-tki/ob&og/seven1.html
川端望氏

 川端氏の論から学ぶべき事は、まずポリティカルな言説に対する一定のストイシズムである。サブカルチャー批評の根底には、大衆の無意識を批評する、という方法意識があることが多く、それゆえしばしば政治的批評になりがちである。

 例えば萩原氏は、ウルトラマンを通じて、家父長主義的イデオロギーやナショナリズムを批判している。逆に佐藤氏は同じ対象を通して、戦後民主主義を批判しているのである。両者を比べた場合、佐藤氏の方がより誠実だ、というのは事実だと思われるが、それだけではなく、私自身の政治意識は佐藤氏に近いので、萩原氏の論考がより不愉快なのかもしれない。こういう点は注意しなくてはならない。

 実はサブカルチャーにおいては、明確に特定のイデオロギーを示しているものが存在する。最新作「ウルトラマンコスモス」殊に劇場板はきわめて政治的で、戦後民主主義における完全平和主義の行き着く先を示していると思われる。おそらく佐藤氏はかんかんというか、あきれてものが言えないということになるし、萩原氏なら、結末の力による決着を批判しつつも大筋で評価するのではないだろうか。この場合、何らかのポリティカルな言説は避けにくいような気がする。
 そうであっても、自らの政治性を自覚化し、慎重になるべきだ。川端論はそういうことを示唆していると思う。

 次に川端氏の重要な主張は、サブカルチャーの表現が単なる自己表現とはならず、様々な力、スポンサー・視聴者・プロデューサー、等々の葛藤において存在する、という事である。これは私も同じ事を考えていたので、大いに共感した。特に金城が東京を去った様々の理由のひとつに、必ずしも自己の主張を通せるとは限らないシナリオライターの宿命がある。

 三点目はさらに重要なのだが、最終回における「友情」の強調という部分である。これはまあ最終回を見ればわかるのではあるが、「地球ナショナリズム」と「友情」を対比させた見方は重要である。川端氏は第1話のシナリオを見ていないと思うので、慧眼であると思われる。

 以下川端論というよりも現在考えているメモみたいになる。

 しばしば「ウルトラマン」の初回と最終回における完結性としてハヤタの記憶の問題が取り上げられるが、「ウルトラセブン」の初回と最終回をつなぐのは、「友情」というテーマだと言って良いように思われる。

第一話のシナリオ末尾。(『ノンマルトの使者』p.76)、放映段階ではカット
ダンの声「今日からウルトラ警備隊のモロボシ・ダンとして地球防衛のために働くのだ。僕が宇宙人だというのは秘密だ。それがわれわれM78星雲中の掟だ。宇宙人である僕が、地球のために働く喜び、それはキリヤマ、フルハシ、アマギ、ソガ、アンヌという新しい友達を得たことで十分満たされるであろう。いかなる妨害があろうとも、この美しい星を守り抜くことを誓う」
紅い(ママ)に染まった富士山が高くそびえ立っている。(F.O)

 実はこれを見れば、ウルトラセブンが地球を守る理由は明らかである。掟があるくらいだから、M78星雲人は、宇宙中に散らばって治安維持にあたっているのである。これは最終回の340号という呼称と呼応している。少なくとも300を越えるメンバーが、宇宙のあちこちで勤務しているのだ。が、340という冷たい数字でも明らかなように、M78星雲には人間関係はきわめて希薄であると推測される。340号は地球という星で「友情」という感情を学んだのである。それゆえ最終回は、任務としての責任範囲を超えた、友情の物語という側面を強く持っている。

 このモチーフはSF、サブカルチャーの世界ではよくあるもので、「スタートレック」のスポックがそうであるし、「寄生獣」のミギーもそうである。西岸良平の「ミステリアン」などでは作品全体のテーマであった。このモチーフは必ずしも合理的な存在とは言えない「人間」という存在を称揚する場合にしばしば用いられる。

 さらに言えば、現段階ではそこまで踏み込むべきではないのだが、この部分は金城自身の、当時の位置を示していた可能性がある。かれはふるさと沖縄を離れ、円谷プロの友情に支えられ闘っていたのだ。

 問題はシナリオ末尾がカットされた事をどう見るか、ということである。私の現在の関心対象は金城哲夫であるから、このカットされた末尾を重く見るのは妥当だと思われるが、カットされたからこそ「地底GOGOGO」(第17話、上原)という別の起源が提出されたのである。また削除されたのが、尺の問題なのか、他に理由があるのか、現時点では未調査である。そもそも放映された部分のみを作品と見なす、というのがサブカルチャー批評の王道かもしれない。この問題は難しいので、いずれよく考えたい。

 シナリオ末尾こそ削られたものの、シリーズ全体でしばしば友情がテーマ化されているのも明らかな事実である。例えば第11話「魔の山へ飛べ」(金城)と第13話「V3から来た男」(市川)男の友情を描く競作ともいえ、ともにアンヌが出てこないという共通点を持つ。

 間にはさまれたまぼろしの第12話「遊星より愛をこめて」(佐々木)では、宇宙全体の平和が夢ではない根拠として、既にダンが地球人と信頼関係を築いていることがあげられる。

 ラスト、ダンの声、映像は逆光の横顔
「そう、そんな日(宇宙全体が信頼しあえる日、大野注)はもう遠くない。だってM78星雲の人間である僕が、こうして君たちとともに闘っているじゃないか」(かなり悪い音声から起こしたので、ミスはあるかも)

 つまりひとつの方向性として、地球人とM78星雲人が仲良くできる→宇宙全体が仲良くできる、という線があるのであるが、一方で「闘っているじゃないか」の部分は諸刃の剣である。すなわち共通の敵がいるから、仲良くできるのであって、そもそも敵がいなくなれば、ウルトラセブンは成り立たなくなる。非常にきついパラドックスである。

 で、再び川端氏の論に帰るのだが、このきついパラドックスを示すのが、川端氏が重く見る初回シナリオに書いてあったメモである。
「人類の“平和”について良く語られる“完全平和”それはもし……という仮設(ママ)故に現実性のないものだが、宇宙人の侵略がもしそのドラマをつらぬくことによってそれ故に地球の平和が乱されるとすれば、仮定の“もし”が現実に与える力がないかしら」

 ここから先は明日以降考える。

進行状況、切通氏の本、金城の部分だけ読了。この感想も後日。

新着資料,
『ウルトラセブンアルバム―空想特撮シリーズ』 竹内 博 (Editor)

『小説ウルトラマン』 金城 哲夫 (Author)

『ウルトラマンの東京』 実相寺 昭雄 (Author)

お、アマゾン、今度は早いじゃないか?


ウルトラマン研究13 6月25日(水)


 ウルトラセブン第8話「狙われた街」(金城)は、シリーズ中でも評価の高い作品で、中には最高傑作と推す人もいる。これは実相寺監督のきわめて個性的な映像、野球中継を効果音とした工夫、有名な和室のメトロン星人等様々な要素があるが、中でも

「メトロン星人の地球侵略計画はこうして終わったのです。人間同士の信頼感を利用するとは恐るべき宇宙人です。でもご安心下さい、このお話は遠い遠い未来の物語なのです…。え、何故ですって?…我々人類は今、宇宙人に狙われるほど、お互いを信頼してはいませんから…」

というラストのナレーションの効果は大きい。ちょうど部屋でアイロンがけをしていた私の母親が、それまで子供番組とバカにしていたのだが、このナレーションには感心していたことを思い出す。

 が、これは金城の世界観を考える上で、微妙な問題点を残す。このナレーションは、当然「現時点では駄目だが、将来可能になるはずだ」とも解釈できるのだが、むしろ「遠い未来」という言葉にはあり得ない理想郷というニュアンスが感じられ、金城の人間に対する絶望感を暗示しているとも捉えられるからだ。

 この問題について、ネットでは「最後のナレーションは実相寺監督がつけたものだ」という説がある。実際私の持っているシナリオ集『ノンマルトの使者』では、最後のナレーション部分はない。また『帰ってきたウルトラマン大全』2003 双葉社p.164には、

「方法論的に言うならそれは『ウルトラセブン』「狙われた街」で人間の信頼感を謳った金城哲夫の意図を、自ら書き込んだナレーションひとつで逆転させた実相寺昭雄の手法に近い」

とある。この本は非常に信頼感のおけるものだが、残念ながら出典が明示されていない。私はかなり時間をかけて、ネットで検索した。しかし確証は得られなかった。
 昨日とうとう自力を断念して、ネットの掲示板で質問することにした。

http://www7.gateway.ne.jp/~okhr/index.htm

 ここで聞いて駄目なら、『帰ってきたウルトラマン大全』のライターか誰かに問い合わせる他無い、と思っていた。するとわずか数時間で答えをいただくことが出来た。この事実は講談社刊『ウルトラマン大全集』の中のインタービューで実相寺監督が「自分がつけた」と言っているらしいのである。ここまで来れば、確認はそう難しい事ではない。

 胸の支えがおりてすっきりしたが、なぜこれが自力で発見できなかったのか、自分は本当に全力で調べて、その後質問したのか。
 教えてくださった紫藻さんに深く感謝すると同時に、反省するのであった。


ウルトラマン研究14 6月27日(金)


『怪獣使いと少年』(切通理作、文庫版)

 これも立派な本である。ただ解説で宮崎哲弥氏が指摘しているように、欠点も多い。曰く、スキが多すぎる、露骨な左翼性とルサンチマン、まあその通りなのだが、そういう欠点も含めて褒める宮崎氏の解説は、リップサービスでは無い。対象に愛のない批評はくだらないが、逆にあまりにも強い思い入れは、客観性を欠いて自壊しがちである。この本はそのぎりぎりのところでとどまった、よい本だと思う。
 ハヤタの空虚さを初め、頷ける部分も多い。その一方、切通氏の論には、マイノリティーの再囲い込み、という懸念も感じる。今後じっくりと吟味していきたい。

新着資料
 大江健三郎「破壊者ウルトラマン」『世界』1973,5
『世界』、大江、70年代、ということで、反日反米がうなりまくりかと思ったが、それほどでもなかった。逆にいえば、あまり面白くない。金城はこれを読んでショックをうけたということ(『怪獣使い』p.129)なので、もう少し検討すべきか?

大城立裕「金城哲夫の沖縄芝居」『沖縄タイムス』1993,7,21
上原正三「なぜ、今」同、22
満田カズホ(のぎへんに斉、この字は作らなきゃいけないのかな)
「怪獣ネーミング秘話」同、23

 さすが完璧といわれる『大城立裕全集』の文献目録。しっかり登録されていた。その他大城立裕著の金城関係。

「心残りの記」(エッセイ)
 『金城哲夫シナリオ選集』金城哲夫シナリオ選集を出版する会編 1977,2 アデイン書房刊

「金城哲夫の帰郷」(コラム)
『琉球新報』1988,5,29

「金城哲夫が、いま」(エッセイ)
 『日本経済新聞』(夕刊)1993,7,14

 エッセイの選択の権限は私にあったので、ひとつは入れればよかったといまさらだが強く思う。まあ、現実的には難しかったわけだが・・・。

 満田監督は「ジラース」の件について以下のように述べている。
「ジラースは沖縄地方の方言だ。最近、父親の金城忠栄氏からその秘密を知った」
 なるほど、情報の出所は、お父さんか。ある方がメールで、ゴジラのジラから来たんだ、という説を教えてくれたが、これは何とも微妙である。

強敵の資料。
玉城優子「沖縄を愛したウルトラマン」『沖縄タイムス』
 実は既に発見しているのだが、予想に反して膨大な資料である。しっぽは93,12,24で、なんと一一四回。頭はまだ確認していない。最終回には来年三一書房から出版すると書いてあるが、どうやらぽしゃっちゃったようである。学生にバイトでコピーしてもらうか?えっと時給千円です。


ウルトラマン研究15 6月28日(土)


断片 金城哲夫と「軍」

円谷プロ、企画文芸部日誌 1966,4,4 
「映画の仕事は各パートがそれぞれの責任の下に結集し、プロデューサーの進軍ラッパに歩調を合わせないかぎり、たとえ一歩たりとも遅れたら全体のバランスが崩れてしまう。コンバットではないが、映画の仕事は軍隊に似ている。一人のミスが全体を死に至らしめることを反省しないわけにはいかない。傑作といわれる映画のなんと少ないことか。
 娯楽映画とか怪獣映画とか言われるが、少なくとも我々は既成の概念で仕事をとらえ、マンネリで仕事をしてはならない。シナリオは特にそうだ。傑作とは、現状を打破しつ旧来のものにプラス・アルファの魅力をもたらした作品であると思う。娯楽であれ怪物であれ、作る側の情熱である。
 いつか必ず傑作は生まれる。そう信じて今日もがんばろう」

 この引用はきわめて変則的であって、最後の一行を除く大半が「ウルトラマンの死」(向谷)、『ウルトラマン昇天』(山田)には二段落(「娯楽映画とか怪獣映画とか~」)と最後の一行が引用されている。両方とも研究書でないため仕方ないのだが、(前略)(後略)等の記載はない。本当は原典にあたって確認すべきなのだが、今回それが可能かわからないため、暫定的に両者を結合した。

 先に『ウルトラマン昇天』の方を読んでいた私にとって、第一段落には少なからぬ衝撃を受けた。山田氏はこの引用で「ウルトラマン」に臨む金城の意気込みを表現したかっただけで、他意は無いと思うが、この第一段落は、金城と軍というものを考えるための、重要な内容を含んでおり、恣意的に削っていいようなものではない。

 まず単純な問題として、金城が軍隊というものに、それほど強い忌避感は持っていなかった、という点である。優れたチームワークの象徴として、軍隊をあげているのだ。
 帰沖後ラジオのキャスターをつとめた金城は、当時沖縄で忌避感の強かった自衛隊機にのり、自衛隊賛美まがいの発言をして問題を起こしている(この問題についてはいずれ詳しく調査する)。山田は、これを帰沖後のいらだちから来た事件と考え、「魔がさしたような」(p.197)と表現しているが、この問題は必ずしもそう単純ではない。

 もう一つは「コンバット」である。
 「コンバット」はもちろん普通名詞もあるが、ここでは1962年から日本放映が始まった、サンダース軍曹で有名なアメリカテレビシリーズであろう。このシリーズの基本的なテーマは戦場における「友情」である。
 1960年から日本で放映が始まった「トワイライトゾーン」(初期の邦題は「未知の世界」)の影響はあまりにもよく知られているが、当時のテレビ人達が、SF作品のみならず、先進的なアメリカのテレビドラマ全てを食い入るに見ていたであろう事は、考えてみれば当然である。そしてこの「コンバット」の要素が色濃く現れるのが「ウルトラセブン」なのである。

 「セブン」最終回では、まさに「一人のミスが全体を死に至らしめることを反省しないわけにはいかない」というモチーフが描かれている。クラタ隊長の役割は、キリヤマ隊長でもよかったのかもしれないが、クラタ隊長こそ「セブン」中の軍人の象徴といえよう。「また君か!一度ならず二度もミスを犯すなんて、それでも地球防衛軍の隊員か!」などというセリフは、ほとんど「それでも帝国軍人か」とかわらない世界である。

 シナリオ上は「ダンの名を呼び別れを惜しむ一同」とのみ書かれているが、テレビ放映では「モロボシすまなかった」というクラタ隊長のセリフがある。長いつきあいのあるウルトラ警備隊のメンバーが「セブン」ではなく「ダン」と呼ぶのは、友情物語としての「セブン」の末尾としてある種の必然であるが、それほどつきあいの無かったクラタ隊長が「モロボシ」と呼ぶことにより、モロボシダンが軍人として承認されていく、という効果があるように思われる。最終回のラストは、他にもシナリオとは異同が多く、満田監督と金城の意志が、それぞれどのように入っているのか、不明な点も多い。

 以上の記述について、最大の問題は、金城が沖縄戦の経験者であるという点である。しかも南部戦線であって、金城の母親は、足を失っているのだ。この問題はなかなか一筋縄ではいかない。

ウルトラマン研究16 7月1日(火)


断片 ウルトラセブン第一話のシナリオ書き込みについて

 これは川端氏の論に大いに触発された部分だが、セブン第一話のシナリオには次のような書き込みがあった。

「人類の“平和”について良く語られる“完全平和”それはもし……という仮設(ママ)故に現実性のないものだが、宇宙人の侵略がもしそのドラマをつらぬくことによってそれ故に地球の平和が乱されるとすれば、仮定の“もし”が現実に与える力がないかしら」(池田憲章『ファンタスティック・コレクション ウルトラセブン』)

 まず重要な点は、虚構が現実に何らかの力を与えられるかもしれない、という発想は、金城にとってはこの場かぎりのものではなく、信念に近いものだった、と考えられるという点である。
 帰沖後の金城は、沖縄芝居第一作の「佐敷のあばれん坊」脚本中に次のような走り書きをしている。

「芝居とは現実から別世界に遊ぶ、感情的な美の表現である。また、もう一つの芝居は現実改革の手段としての演劇である」(『金城哲夫の世界』p.57)

 金城は佐々木守のように、社会問題に対する見やすく直截的な批判はしなかったが、エンターテーメントを閉じた世界とせず、現実に開かれたものと考えていたのである。

 最初の書き込みに戻って、この書き込みから受け取れるのは、まず金城があらゆる戦争、紛争が無い「完全平和」というものに、現状では懐疑的だった、という点である。しかし「宇宙人の侵略」をうける架空の地球では、「完全平和」が成り立つ。
 ただ、この部分だけでは「内乱を鎮めるには、戦争に限る」というロジックと同様であり、現実に歴史上、国内矛盾を解消するために行われた戦争は数多いのである。従ってそれは現実そのものの写し絵に過ぎず、「仮定の“もし”が現実に与える力」は存在しない。
 ひとつの可能性としては、まず地球と宇宙とを切り離し、地球という星を価値ある存在とみなすというありようである。すなわち地球というのは宇宙の中でも例外的にすばらしい星なのだから、その星の中で争うのは愚かだという考え方である。現実には宇宙人は攻めてこないわけだから、地球を価値ある存在であると再確認することは、あるいは「地球」ローカルの「完全平和」になんらかの寄与が可能かもしれない。

 その一つは、1958年ガガーリンの「地球は青かった」という言葉によってもたらされた、地球主義ともいえる考え方である。侵略ものでもっともポピュラーな侵略理由はなんといっても「美しい地球」に対する、宇宙人の欲望であり、この地球の美しさにおいては国家や民族は対立しない。

 これは私が見過ごしていてシリカゲルさんに教えてもらったのだが、セブン第一話の放映時カットは、ラスト部分だけではない。
http://homepage3.nifty.com/umt/bbs.htm

アンヌ、ダンを案内して入ってくる。
アンヌ「ここが私の部屋、メディカル・センターよ・・・ウルトラ警備隊のために、キズまで負って闘ってくれたお礼に、何かプレゼントしたいわ。あなたが一番好きなものは、なぁに?」
ダン「地球!」
アンヌ「(びっくりして)地球?」
ダン「そうです。僕が闘ったのは、ウルトラ警備隊のためだけではない。この美しい地球のためだ」
アンヌ「さすがは風来坊さんね。スケールがあっていいわ。お望み通り、青く美しいこの地球を心をこめてあなたに差し上げるわ」
アンヌ、笑う。
ダン「ありがとう。宇宙広しといえども、こんなすばらしい星はないからね。僕はいのちをかけて地球を守るよ。悪魔のようなヒレツな手段で地球を盗もうとする宇宙人がウヨウヨしているからね」
(『ノンマルトの使者』p.69)
 
 広い宇宙を知っているウルトラセブンに、地球はお墨付きをいただいている。地球人はそのような幸運にもっと感謝すべきなのである。
 さらに地球のすばらしさは、美しさばかりではない。第8話「狙われた街」では、宇宙人が目をつけるほど相互に信頼し合う「人類」が描かれている(既に述べたとおり、このテーマは実相寺監督によって逆転された)。また第11話「魔の山へ飛べ」では、若い生命力を持った地球が狙われてしまう。侵略理由のバリエーションとは、地球のすばらしさの再確認なのである。そしてこのようにすばらしい地球は人類に大切にされるべきである。

 もちろん以上の記述は、大きな欺瞞を抱えている。侵略によって確認される地球の価値が、たとえ視聴者に実感し得たとしても、虚構世界の中では血なまぐさい戦闘が続いているのである。虚構内部の侵略戦争によって、現実世界の「完全平和」をめざすという、ごまかしに過ぎないとも言える。

 それゆえ金城は、虚構内部においても「完全平和」を試みようとしている。第7話「宇宙囚人303」である。この作品では宇宙普遍の「正義」が語られている。303号は例外的な犯罪者であり、しかもセブンが手を出す必要もなく、「自業自得」のもと自滅していく。この作品でセブンが手をださないという点は、相当に意図的だと思われる。なぜならセブンがやっつけてしまうと、それは善悪の問題ではなく、結局セブンの方が強かった、ということに過ぎなくなってしまうからだ(注)。悪は滅びるという普遍的な原則によって303号は自ずから滅びてゆく。そしてキュラソ星と地球は友好関係を築くのである。
 この作品はシリーズにおいては、おそらく一回しか使えない手法である。そもそもウルトラの見せ場は、ヒーローと敵との戦闘であり、毎回のように勝手に敵が滅びたり、話し合いによって決着がついたりしては番組自体が成り立たなくなる。話し合い決着型はウルトラマンで一回使ってしまったため(第33話「禁じられた言葉」金城)、ウルトラセブンでは避けられたのかもしれない。まさに「禁じられた手法」であって、第14、15話「ウルトラ警備隊西へ」は、娯楽番組としての「ウルトラセブン」の限界を示す作品と言えるかもしれない。

 さまざまな工夫の結果、金城の中で「仮定の“もし”が現実に与える力」の困難が、実感されていったのではないか。現在の所、私の考えは、そのようなものである。ウルトラセブンもしくは地球人の「正義」を支えるのは、その「強さ」であった。ウルトラマン以来、金城は様々な試みでこの問題を回避しようとしたが、結局は「強い者が弱い者をやっつける」という枠組みからは逃れられなかった。
 チーフライターという立場の中で、唯一自己の築き上げた世界に異議を唱えた作品が、第42話「ノンマルトの使者」であると思われる。これは同時に、沖縄と本土の架け橋になる、といって沖縄を飛び出した、金城哲夫という「使者」の苦悩を示す作品であった。

(注)「ウルトラマンコスモス」は「完全平和」を前面に押し出した作品である。劇場版第一作では、敵わないとわかったバルタン星人が自爆するという手法でこの問題を切り抜けている。第二作で「結局強さが正義なのだ」と主張するサンドロスとそれを否定するコスモスとの対立は、なんとサンドロスを力で倒すことによって決着する。サンドロスは、自らの死をもって自説の正しさを証明したのである。


ウルトラマン研究17 7月3日(木)


 昨日今日と図書館にこもって、沖縄時代の金城哲夫の資料を収集しているのだが、はっきり言って難航している。

 1993年、沖縄で唐突に金城哲夫ブームが起こり、「金城哲夫の世界展」が開かれたり、14であげたような資料が出されているのだが、それ以前はまるで、そんな人いなかったような扱いである。(92年から93年のブームについては、いずれ再検討しなければならない)
 金城は1976年2月26日に亡くなっているのだが、県内紙には死亡記事すらない。この点について「ナビィの恋」の監督で、20年以上沖縄で暮らしている中江裕司氏は次のように述べている。

「「ウルトラマン」が、なぜ年表にないんだろう。
 テレビ放送が始まったのが二十世紀。そのテレビヒーローの代表は、やはりウルトラマン。そのウルトラマンを生んだ金城哲夫は沖縄生まれ。だから、ウルトラマンは沖縄が生んだ日本を代表するヒーロー。それなのに、金城哲夫の存在が地元で極めて低く、あぜんとした。沖縄は金城哲夫をもっと誇りに思うべきだ。
 沖縄はエリートを大事にしないし、逆に足をすくったりする。それに沖縄のエリートほど大衆とかけ離れ、影響力を持ちえないというのも不思議だ」 『琉球新報』2000.12.29

 全く同感であるが、なかなか私にはここまでは言えない。20年も暮らすと言えるようになるのだろうか。
 沖縄の場合、本土で成功するというのは諸刃の剣である。安室奈美恵あたりも、この種の問題を抱えているらしい。生涯沖縄を離れないであろう大城立裕氏すら、そういう面がある。いずれきちんと考えるが、金城哲夫と大城立裕には共通点が多い。

 現在の所、沖縄時代の金城を考える第一級の資料は『ウルトラマン島唄』である。もちろん一日や二日の調査で結論を出してはいけないのだが、研究者の端くれのカンとして、これにない文献資料を発掘するのは相当の時間を要すると思われる。で、沖縄時代の研究は夏休みに回して、当分はウルトラ時代に絞ることにした。まあ、もともと「ウルトラマン研究」なのでこれでいいのであるが・・・。

  * * *

 「ウルトラマン年表ver.2.1」をアップ。同時期のSF作品等を付け加えた。

 直接、ウルトラマンには関係ないのだが、「小説遊女たちの戦争」の批評をアップ。これは紫藻さんの書き込みを見て、確かそんな小説を論評したはずだ、と思い出したため。個人としての日本兵と住民、特に慰安婦との関係を描いた、数少ない作品である。
 一応98年以降に県内紙に書いたものは全てアップしたつもりだったが、結構いい加減かも。


ウルトラマン研究18 7月7日(月)


「ノンマルトの使者」についての断片1


断片「ノンマルトの使者」の特異性

 「ノンマルトの使者」については、このシナリオが金城のオリジナルではないのではないか、という考え方がある。その論拠はおおよそ以下の通りである。

 脚本家金城哲夫は、何よりもチーフライターとして、シリーズ全体の統一性に力を尽くしていた。「ウルトラセブン」の全体性とはいうまでもなく「侵略」である。悪意をもった宇宙人(それに類する知的生命体)が、多様な手段を用い地球に侵略しようとする。これに対しウルトラ警備隊を中心とする地球防衛軍、およびウルトラセブンの努力により、侵略は防がれ、多くの場合宇宙人は殲滅される。これが一話ごとの基本的な枠組みである。

 反復される侵略を通じ、ウルトラ警備隊のメンバーと、宇宙人モロボシダンとの友情と信頼関係は強まっていく。隊員それぞれのパーソナリティーを示すような作品を積み重ねることで、視聴者のおのおのの隊員に対する理解は深まり、地球防衛の困難さと崇高さ、さらにはそのようにして防衛されるべき地球の価値が、再確認されていく。「ウルトラセブン」の最終回とは、その決着点として位置づけられる。これがシリーズ全体をひとつの物語と見なした場合の枠組みである。

 ただし発表から30年以上が経過した現在も、「ウルトラセブン」が強く支持され続けられる理由のひとつに、全体的な枠組みからはずれたシナリオの存在があげられる。それは、地球人=善、宇宙人=悪という、シリーズの枠組み自体を相対化するような作品である。例えば若槻文三の書いた「ダークゾーン」や「超兵器R1号」などが良く知られている。ダンと隊員達の連帯感を描かずに、むしろ宇宙人としての孤立感を強く表現した、市川森一の「盗まれたウルトラアイ」や、枠組み自体は単純侵略物だが、ラストのナレーションで現在の人類の不完全さを強く表現した「狙われた街」もそうであろう。

 これらの作品は、金城以外のライターか、監督による大きな改変によって生まれた作品である。チーフライターである金城が基本ラインをつくり、他のクリエーターがそこに変化と多様性をもたらす。これはウルトラマン以来一貫したチーフライター金城の方法であった。本来統一感と多様性は齟齬を起こしかねない危険性があるのだが、金城は自己の判断で両者のバランスをとった。市川森一は金城の指示を受けて書いたことを証言しているし(ビデオ、『わが愛しのウルトラセブン』)、金城と他のライターとの共同脚本がいくつかあるが、これらは基本的に金城が、問題のあるシナリオに手を入れた物である。金城はそのような自分を「修理工場」と呼んだとされる(『島唄』p.149)。

 以上のような前提に立つ時、「ノンマルトの使者」は特異な作品であるといえる。全体の統一感を維持する役割をもった金城が、シリーズ全体を覆しかねないシナリオを書いたからである。「ウルトラセブン」を愛し、その全ての作品を文字におこすという途方もない試みを実現した、編集人氏は、
http://www7.gateway.ne.jp/~okhr/index.htm
セブン途中からプロデューサーとして参加し、強い政治意識をもった橋本洋次の意志を示唆している。


断片 ウルトラマンとウルトラセブン

 逆に「ノンマルトの使者」を金城の代表的なエピソードと見なすのが、切通理作氏である(『怪獣使い』p.78)。切通氏はウルトラマンのシナリオから金城の考え方を抽出し、そこに「ノンマルトの使者」を接続している。切通論の特徴は、シナリオを直接的な脚本家の自己表現とみなしている点と、切通自身の世界観をかなり強く押し出している点にある。だからこそ読み物のとしての迫力があるのであるが、例えばチーフライターとしての金城の立場についての配慮などはあまり無い。それゆえ「ウルトラセブン」の全体性を作るためにどうしても必要だったセブンの初期シナリオについての言及は、ほとんど無いことになる。例外的に「宇宙囚人303」について言及しているが、囚人が「戦争忌避兵や、政治犯かもしれない」と述べ、「正義はひとつ」を「自己合理化するしかなかった」とするのは、作品全般のキュラソ星人の残忍さからすると、無理があるように思われる。ただしキュラソ星人の最期の場面における、フルハシの「まるで泣いているみたいだ」というセリフにはウルトラマンとの連続性はある。

 「ウルトラマン」と「ウルトラセブン」世界そのものの枠組みが、本質的に異なっている、という点をまず確認しなければならない。

 「ウルトラマン」の本質は、まず「ベムラー」のもっていた、フォークロア的な構造にある。そこに宇宙人ウルトラマンというSF的な要素をかぶせた二重構造が、ウルトラマンの枠組みである。初回と最終回、そして金城としては唯一の侵略物である「禁じられた言葉」が、SF的な枠組みであり、他のシナリオには、フォークロア的な色彩が色濃い。当然代表となるのは「まぼろしの雪山」となる。あれは正義の宇宙人と怪獣が戦っているのではない。二体の精霊の争いなのだ。ウルトラマンは寒くても平気なのである。ジラースとの争いもまさにそうであり、大地の精霊同士が力比べをしているとみるべきであろう。

 「ノンマルトの使者」との関連でいえば、重要なのは「恐怖のルート87」である。この作品でも、死んだ子供がメッセージを発している。そしてウルトラマンの世界では、メッセージは、確実にウルトラマンに届くのである。ヒドラは倒していないのであるが、少年が昇天した以上、もはや心配はいらない。これがウルトラマンの世界である。逆に使者の言葉を信じて、攻撃を中止すれば、たちまちシリーズ全体が崩壊してしまうのがウルトラセブンの世界なのである。


ウルトラマン研究19 7月10日(木)


「ノンマルトの使者」についての断片2

2.1シナリオと放映分の異同

 非常に多い。特にレギュラー出演者は、語尾等についてはある程度の自由が認められていたようだ。逆に「真市」の子役などはシナリオに忠実である。文学の本文批評の場合は、一字一句正確にチェックしたりもするのだが、シナリオの場合そこまで厳密にやるのはあまり意味のないことだと思われるので、大きな異同だけにしておく。

*もっとも大きいのはテーマに関わる、ダンの内言である。

テレビ「もし、真市くんが言ったとおり、ノンマルトが地球の先住民族だったら・・・。もし、人間が地球の侵略者だとしたら・・・」

シナリオ「(内心の声)真市君の言った通り、もし人間が地球の侵略者だったとしたら、ウルトラ警備隊の一員として働く僕は、人間という侵略者の協力をしていることになる……だが、ノンマルトは本当に地球人だったのか?」

シナリオ ダン「真市君は、霊となって、ノンマルトの使者として地上に現われていたのだ」
テレビのこの部分は驚くダンとアンヌのストップモーションに及び波の映像になっており、このダンのセリフは、ラストのナレーションに移されている。

*ノンマルトの海底都市の発見者はテレビではアンヌであるが、シナリオでは一般隊員になっている。これはシナリオではアンヌがダンと一緒に海岸に出動したため。これに付随して、テレビにはなかったダンとアンヌのセリフが、シナリオ上いくつかある。
例 ダン「アンヌ!君は向こうの岩陰に!」アンヌ、走る。

*2回目のガイロス、テレビでは海中に沈むが、シナリオでは砂浜に投げられてから絶命する。これはあんまり重要ではないかも。

*ト書きの問題
「子供、すきとおるような無垢な瞳で見降ろす」
 実際のテレビでもなかなか神秘的な感じのする子役を使っていたと思うが、この金城の意図がどの程度実現されていたのかは、不透明である。金城は「使者」をきわめて純粋な存在として描いていた。

「と岩陰から顔を出すノンマルト!恐ろしく怪奇な顔!」
 これは紫藻さんが重く見るト書きである。このト書きについては、先制攻撃したのはノンマルトであり、実際に死者も出ていること(ダン「失礼ですが、海底開発センターの遺族の方ですか?」)、ノンマルトが罪もない漁村の攻撃に踏み切ったこと、等と並び、この作品を成り立たせる重要な部分であると思われる。視聴者が一方的にノンマルトに感情移入するようなことになると、「ウルトラセブン」というシリーズ自体が、完全に崩壊しかねないからである。「ウルトラマン」のジャミラ(「故郷は地球」村山)が、のどかな山村を一方的に攻撃するのと、同じ役割をもっていると思われる。


2.2グローリア号
 ノンマルトが奪うイギリスの原潜の名前はグローリア号だった。これはもしかすると1949年に沖縄を襲ったグロリア台風から来ているのではないだろうか、などとふと思った。住宅の全半壊三万戸余、死者三十八人、負傷者多数。米軍基地にも多大な損害を与え、一時期沖縄撤退も議論されたそうである。まさに四年遅れの神風。当時金城は11才。しかしまあこれは「M78星雲=那覇」説と同様、証明不可能である。


ウルトラマン研究20 7月15日(火)


新着資料

1『金城哲夫シナリオ選集』(金城哲夫シナリオ選集を出版する会 代表 屋良朝輝)アディン書房 1974。

 何を今更だが、県立図書館に行く暇がなかった。没後一年目に主に知人友人によって刊行されたもの。限られた紙数の中で、なるべく全体像を伝えようという、苦心が感じられる。掲載シナリオは以下の通り。

テレビ・ドラマ編
「こんなに愛して」「翼があれば」「宇宙からの贈り物」「ウルトラ作戦第一号」「蒸発都市」

ラジオ・ドラマ編
「噴煙ー琉球反逆伝シリーズより」「江戸上り異聞」

沖縄芝居編
「風雲!琉球処分前夜」「泊気質・ハーリー異聞」「一人豊見城」

 大城立裕を初め、青島幸男や藤本義一などのエッセイが掲載されている。いずれも弔辞のような内容。

2,『琉球新報』1956年3月のコピー3点。

 金城が参加した「玉川学園慰問隊」の記事。特に新事実はなく、『ウルトラマン昇天』の方が詳しい内容だが、当時の沖縄にとってそれなりに大きな出来事だったことが伺える。ひめゆりの塔の前で賛美歌を歌った事が、かなり大きく取り上げられている。

 進行状況。ウルトラマン、ウルトラセブンの全作品見直し、ようやく完了。ただしウルトラQについては部分的だし、マイティージャックはひとつも見つけていない。沖縄在住のレンタルビデオマニアの人が、これを読んでいたら、最高の品揃えの店を、教えてください。 




© Rakuten Group, Inc.