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今回の帰郷では途中で上野城と法隆寺とに
寄った。 築城の名人といわれた藤堂高虎により築かれた 上野城は高い石垣を持った、いかにも中世的な 城郭だった。 戦国時代は山川など天然の要害を利用して作ら れる事が多かった。 末期になると城郭も、生活に、また経済的に有 利な町中に城を移し、防衛力を保管するために 石垣を高く積み上げるようになる。 これは世界の築城法の流れからみるとやや 逆行したもので日本独特の現象とも言えそ うだ。 高い城壁を持ち難攻不落の異名とる1453年に コンスタンチノープルがオスマントルコに より落城する。火砲が発達したためだ。 その後は深く堀を掘り下げ、その両面を石垣で葺き、 攻城兵の接近を許さないタイプの城砦が発達した、 と塩野七生氏の「コンスタンチノープルの陥落」にある。 名古屋城は後者のタイプなので非常に感慨深かった。 改めて名古屋城の城壁を見てみると深く掘り下げた。 タイプでこれだと砲弾に当りづらいし、当っても壁面 内部は(壁ではなく)地面である為に全面が崩れ落ちる ということはない。 最も上野城は山を石垣でふいたというタイプなので 砲弾には強かろうが。 同時代の築城法で中世風と近世風とが平行して 行われた、というのは、日本は小銃に関しては世 界随一の発達をしたのに対し、大砲については 軽視されていたという事の証左だ。 恐らく名古屋城の縄張り(設計)には多くの西洋人も 関与したのではないか? 法隆寺については広い、って感想ぐらいか。だって 知識とすれば, 山岸涼子氏の「日出処の天子」ぐらい しかないもの・・・。 さすが観光地というべきか土産物屋で試食品を口に したら店員がすぐ飛んでくる。感じ悪・・・。で、すぐ退散。 次回は飛鳥に行きたいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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