草色のブランケット

2005/09/13(火)22:33

日日是好日

本・活字・机まわり(12)

先週は久々にいろいろと活動的に頑張ったからか、ちょっとここんところ疲れが皮膚の調子を狂わせている。 腹部と首が少しまた痒くなり、右手の指が荒れて痛い。 指にバンドエイド貼っていると、じくじくとしてくるので困っていたが、遊説中の野田聖子さんが指サックをしているのをニュースで見て、真似して「ネットホータイ」なる指サックをしてる。 布なので、濡れるのを避けたい。 そんなこんなで、ちょっと台所作業をお休み中。 新しい編み物を始める気もしないので、こういうときは、おとなしくひたすら読書。 図書館でいろいろ借りてきたところ、マクロビとは一見関係ない茶道エッセイにとても感銘を受けた。 「日日是好日」というこの本は、茶道の知識や興味がなくてもすらすらと読め、日本の伝統の奥深さだけでなく、なにかを続けてみることの大切を教えてくれる。 最初はあまり乗り気ではないまま、大学時代に茶道を始めた著者は、それほど茶道の素質があるわけでもなく、練習にものすごく熱心なわけでもないのだけれど、週一度の教室通いを続ける。 そして、あるとき、一つの「悟り」をひらく。 それまでは、雨は「空から落ちてくる水」でしかなく、匂いなどなかった。土の匂いもしなかった。私は、ガラス瓶の中から外を眺めているようなものだった。そのガラスの覆いが取れて、季節が「匂い」や「音」という五感にうったえ始めた。自分は、生まれた水辺の匂いを嗅ぎ分ける一匹のカエルのような季節の生きものなのだということを思い出した。  毎年、四月の上旬にはちゃんと桜が満開になり、六月半ばころから約束どおり雨が降り出す。そんな当たり前のことに、三十歳近くなって気づき愕然とした。  前は、季節には、「暑い季節」と「寒い季節」の二種類しかなかった。それがどんどん細かくなっていった。春は、最初にぼけが咲き、梅、桃、それから桜が咲いた。葉桜になったころ、藤の房が香り、満開のつつじが終わると、空気がむっとし始め、梅雨のはしりの雨が降る。梅の実がふくらんで、水辺で菖蒲(しょうぶ)が咲き、あじさいが咲いて、くちなしが甘く匂う。あじさいが終わると、梅雨も上がって、「さくらんぼ」や「桃の実」が出回る。季節は折り重なるようにやってきて、空白というものがなかった。  「春夏秋冬」の四季は、古い暦では、二十四に分かれている。けれど、私にとってみれば実際は、お茶に通う毎週毎回がちがう季節だった。  どしゃぶりの日だった。雨の音にひたすら聴き入っていると、突然、部屋が消えたような気がした。私はどしゃぶりの中にいた。雨を聴くうちに、やがて私が雨そのものになって、先生の家の庭木に降っていた。  (「生きてる」って、こういうことだったのか!)  ザワザワッと鳥肌が立った。  お茶を続けているうち、そんな瞬間が、定額預金の満期のように時々やってきた。何か特別なことをしたわけではない。どこにでもある二十代の人生を生き、平凡に三十代を生き、四十代を暮らしてきた。  その間に、自分でも気づかないうちに、一滴一滴、コップに水がたまっていたのだ。コップがいっぱいになるまでは、なんの変化も起こらない。やがていっぱいになって、表面張力で盛り上がった水面に、ある日ある時、均衡をやぶる一滴が落ちる。そのとたん、一気に水がコップの縁を流れ落ちたのだ。  もちろん、お茶を習っていなくたって、私たちは、段階的に目覚めを経験していく。たとえば、父親になった男性が、  「おやじが昔、お前にもいつかわかる、と言ってたけど、自分が子どもを持ってみて、あぁ、こういうことだったのかとわかりました」  などと口にする。  「病気をきっかけに、身のまわりの何でもないありふれたことが、ものすごく愛おしく感じられるようになった」  という人もいる。  人は時間の流れの中で目を開き、自分の成長を折々に発見していくのだ。  だけど、余分なものを削ぎ落とし、「自分では見えない自分の成長」を実感させてくれるのが「お茶」だ。最初は自分が何をしているのかさっぱりわけがわからない。ある日を境に突然、視野が広がるところが、人生を重なるのだ。  すぐにはわからない代わりに、小さなコップ、大きなコップ、特大のコップの水があふれ、世界が広がる瞬間の醍醐味を、何度も何度も味わわせてくれる。 季節の移り変わりに、著者の五感が目覚めて、「生きてるってこういうことなのか」と感じる瞬間というのは、マクロビにも共通するものがあると思う。 私はまさにこの30年間、五感よりも理性、日本よりも欧米を優先させた生活を送ってきていたので、マクロビを始めてから、毎月のように、「プチ悟り」を開いている気がする。 野菜って煮るだけでこんなに甘いんだ。 同じ塩味でも、びりっとしたり、からっとしたり、まったりしたり、いろいろあるんだ。 かぼちゃって夏が旬なんだ。(てっきりハローウィーンの秋の野菜だと思ってた。) 茶道ほどフォーマルではないけれど、マクロビの料理をきちんと台所で作るときというのは、穏やかに、適度な緊張を持ちながら自分を向き合うという意味で、茶道と同じように、自分の成長を実感させてくれる機会だと思う。 一滴一滴コップに水がたまっていって、あるとき一気に水があふれ出て変化に気づく、という経験を私もしている。 私にとっての「気づきを提供してくれる場所」はマクロビ料理を作る台所だけれど、人によってその場はさまざま。 そのことに気づかせてくれたこの本に感謝。 母親と姉は茶道をやっているので、さっそくすすめてみた。 (写真は、数年前に訪れた水戸で撮ったものです。)

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