389904 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

都夢のホームページ

都夢のホームページ

自分で寿命を決める時代が来た

自分で寿命を決める時代が来た

先日とある老人ホームと病院へ行ってきました。母方のお婆さんと、お爺さんのお見舞いでした。

先に訪れたのは、お婆さんのいる老人ホームでした。

施設自体は、外から見ると、リゾートホテルと見間違うような建物です。施設の外は、どこにでもある田舎の景色が広がるところですが、この施設内だけは別世界です。中庭には、高さが10mにも届きそうなクリスマスツリーがあり。アライグマやセキセンインコなどが飼われています。そこでは面会に来た人達と車椅子に乗った住人が行き交っています。なんともホノボノとした情景でした。

この日お婆さんは、調子が悪く面会に出て来れなかったので特別に施設内にある建物の中へ入らせていただきました。暗証番号を入力しないと開かない扉を、何回も通りすぎ中に入りました。決してそこの住人は開くことの出来ない扉です。そしてお婆さんがいる部屋にたどり着いた時に目にした光景は、建物の外からは想像も出来ない世界があったのでした。

そこはまるで動物園の檻の中のような所でした。一瞬そこにいる人達を、人間とは思えなかったのです。世話をしないと決して自分では生きることが出来ない動物が飼われているというのは言い過ぎでしょうか。ある人は、「連れて帰って。」 ある人は、「オシッコ、オシッコ。」と動物園の動物が叫んでいるかのようです。その言っている言葉に意味はありません。連れて帰らなくても、オシッコに連れていかなくても問題はありません。お世話をする人達もそんなことにはお構い無しに、お世話作業をこなしています。

僕のお婆さんは、割合頭はシッカリしていて、何故ここにいるのか不思議なくらいです。ちゃんと会話も出来ます。行った時には、「ヤヤ子(子供)はまだか?」と聞かれたのでドキッとさせられました。

だけど自分では生きれません。

次に訪れたのは、お爺さんのいる病院です。

病気一つしなかった元気なお爺さんは、ほぼ全身不随で半植物状態です。僕と目が合っても、僕を見ているのか、ただ目が開いているだけなのかわかりません。かすかに動く左腕が、僕に何かを訴えているかのようです。苦しそうです。それでも生きています。

生きているというより生かされている

食べる物のおかげか、医療のおかげか、誰のお陰か分かりませんが、有史以来の長生きをするようになった日本人は、体は生きるに十分な力を持っているが、脳は、その長生きに付いて行けなくなっているようです。現に僕のお爺さんも、お婆さんも自分では生きていくことが出来なくなっています。お爺さんは、パイプで流動食を胃にまで届けてもらい栄養を摂取しています。

二人とも、ほっておかれたら生きることは出来ませんが、生きることをやめることも出来ずに生きています。そもそも生きているのかどうかも本人には分かっているのかどうかも分かりません。苦しくても、苦しくても選択儀はありません。

僕たちも、長生きしてしまえばそのようになる可能性が大いにあります。
あなたは、自分では開ける事の出来ない扉のある部屋の中で、生きていく用意はありますか?
苦しくても苦しくても生きていく用意はありますか?
病気が治っても、自分では生きることが出来ない人生をおくる用意はありますか?
生きていること知らずに、体は生きている状態を、受け入れる用意はありますか?

昔デカルトという人が言いました。「我思う、故に我あり」。
私は何もかもを疑っている。でも、疑っているという事実がある以上、私が存在しているということは間違いないという意味のようです。
さて僕のお婆さん、お爺さんは、存在しているのでしょうか?
僕もそんな状態になった時、僕は存在していると言えるのでしょうか?

2003年1月15日



© Rakuten Group, Inc.
X