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テーマ:今日見た舞台(953)
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野田秀樹の「贋作・罪と罰」を見た。
ストレートでわかりやすい、『罪と罰』そのままだったという友人の評を聞いて、ある意味安心して行った。 確かにわかりにくいところはなかった。 わりかし現実的であり、言葉遊びだけで展開するような場もなかった(『罪と罰』じゃさすがに無理ってことかな)。 話もシンプルなまま、思っていたよりずっと原作に近い。 ただちょっと(野田にしては珍しく?)どこにいちばん焦点合わせたいのかがわかりにくいだけ(笑)。 まぁ相変わらず衆愚に対する怒りのようなものは伝わってくるが、テーマとなっている「理想の実現のためなら小さな悪は許される(注:原作ではもう少し複雑)」という思想はインテリのものであって大衆とは一線を画する、つまりその思想の批判は大衆よりインテリ批判に相当することになる。それが悪いというわけではなくて、そんなところに焦点当てたいわけじゃないんじゃなかろうかという疑問が……。 それから、どちらかといえば怒りのアンテナが「理想を論じながら(=こいつを殺せば世の中良くなると言いながら)自分では行動しようとしない人々」に向けられているようなのが気になった。自分で責任取りたくないから他人にやらせようとするのは、真実、醜い振る舞いだけれど、だからってじゃあそれ(理想のための殺人)を「実践」したら偉いんかってーとそれも違うはずで……。 しかし今になって思うとそれらはみな「大義のためなら何でも許される」という某アメリカ(「某」付ける意味ないね…)のような、あるいは極東の国の首相のような、稚拙(単純馬鹿で幼稚)な志向をことごとく粉砕するための手法であったのかもしれない。あちらからもこちらからも否定する、そうするための。 松たか子は頑張ってたし(野田の舞台では毎回叫ぶ役だね)、古田新太は相変わらず上手かった。 脚本もあとから考えると巧妙に細工してある。主人公以外は、だいたい原作における複数の人物の役割を振り分け、重ねて演じるようになっている。たとえば古田の役は主にはラズーミヒン(友人)だが、ソーニャ(娼婦)やドゥーニャ(妹)も部分的に受け持つ。その再構成のしかたは非常にうまく、見ている者に不自然さを感じさせない。 ただ、肝心の野田が……ちょっと……さすがに浮いてないですか(苦笑)。 『罪と罰』への先行イメージを持っているからそう思うのかもしれないけど。 あとは、幕末の、「理想に燃える志士たち」を持ってきているはずだが、その熱気が薄いような気がして、じゃあどうしてこの時代を舞台に選んでいるのかという意味がわかりにくかった(これについては全く私が鈍感なだけの可能性が高いけど)。 実は『罪と罰』読んでません。 だって有名なんだもん(言い訳)。 読まなくてもみんな知ってるでしょ、あらすじ。だから読まなかったの、長いし。 これから読む。読もうと思わせてくれた、それがこの舞台から得られた一番の果報だったのかもな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.01.10 20:37:34
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